風の中に、ひんやりと冷たいものが混じるようになりました。 木々の葉が、赤や黄色に色づき、風に揺られて甘いような香りを立たせる、秋。 森の中の小さな家は、一年のうちで一番忙しい時期を迎えます。 親愛なる、「あちら側」の皆様へ 森の中に一軒だけ建った、小さなお家。 この日は、その煙突から絶えることなく、香りのいい煙が立ち上がっていました。 森の中一帯に香ばしい香りが散らばり、動物たちや「森の住民」たちは、興味深く森の家の住人の動向を見守っています。 ハタハタとはためくカーテンが翻り、家の中で忙しく働く家人の様子が、遠目にも、感じられるのでした。 「シエラ、泡立て、これでいいかしら?」 「有難うございます、お嬢さん。ええ、十分ですとも。じゃあこの生地に飾り付けてしまいましょうね」 「うん、わかった!」 「おい、何か焦げてないか…?」 「え?あ!きゃああああ、大変!焼きすぎてしまいました…!!」 家政婦がバタバタと走り、オーブンの扉を開けると、香ばしいというには、少々刺激の強すぎる匂いが家の中に広がりました。 「あああ、これはやり直しですね…」 「本っっ当にお前は使えないな!」 「ハック。じゃあ、先にスコーンの生地を作ってしまったほうがいいかしら」 台所には収まりきらない、たくさんの甘いもの。 大きな木を削って作られたテーブルの上には、スコーンやクッキー、果物のパイといったお菓子が、ところ狭しと並べられています。 この世界と、「あちら側」との境界が、一年で一番あいまいになるこの日。 森の中の小さな家では、一年で一番、たくさんのお客様を迎えることになるのです。 「おい、エレナ、その辺でいいだろう。あとは馬鹿家政婦とおれに任せて、もう寝てろってば」 「馬鹿は余計です!でも、そうですよ、お嬢さん、そろそろ横になったほうが…」 作業を手伝いながらも、はらはらと娘の様子を伺っていた妖精が、そろそろ限界だ、と言わんばかりに娘に声をかけました。 妖精の悪口に腹を立てながらも、家政婦も心配そうな眼差しを娘に向けます。 くるくると、よく働いている娘ですが、彼女は実は身体がとても弱く、本来なら、一日の半分はベッドの上で過ごす必要があるのです。 誰かのために何かをすることを、何よりも楽しみとする娘は、この日は早くから家政婦と妖精と共に、お菓子作りの手伝いをしていましたが、妖精も家政婦も、そんな彼女のことを、とても心配していました。 耐熱皿の上に、スコーンの生地を搾り出していた娘は、心配そうな二対の眼差しに、大丈夫、と微笑んで答えます。そうして、いたずらっぽく瞳をきらめかせて付け加えました。 「それに、そういうわけにはいかないわ。パパはお仕事が忙しいのだから、私たち全員で力を合わせなくっちゃ」 「おやおや、つれないな。僕には手伝わせてくれないつもりかい?」 「パパ!」 答えた瞬間、後ろから声をかけられ、娘はたいそう驚きます。 家政婦と妖精も、一家の主の登場に、目を丸くしました。 「パパ、もうお仕事終わったの?」 「昨日請け負ったお仕事ではなかったのですか?」 「うん。大急ぎで終わらせてしまった。今日は受け取りに来てもらえる予定だから、僕も今から手伝えるよ」 急な仕立ての依頼に、昨夜も遅くまでミシンを鳴らして仕事をしていたため、少しばかり眠そうな瞳をしていましたが、それでも仕立て職人は元気に笑って手伝いを申し出ます。 妖精は得たりというように、娘に向き直りました。 「ほら、オリバーも仕事終わったてよ。もうお前は寝てろ?」 「うん…。でも……」 名残惜しそうに、未完成のお菓子に視線を投げ、娘はちらりと父親を伺いました。 「じゃあ、この生地と、飾りつけだけ、終わらせてしまっても良い…?」 「うん。じゃあそれだけはエレナにお任せしよう。それが終わったら、もう今日は休むんだよ?」 「うん!有難う、パパ!」 父親がおおらかに肯くと、娘は瞳を輝かせて喜びました。 生地を搾り出した耐熱皿を家政婦に手渡し、先ほど泡立てたクリームに取り掛かります。 「おい、エレ…」 そんな彼女を止めようと足を踏み出した妖精の肩に手を置き、仕立て職人は穏やかに微笑みます。 心配はいらないよ、というように。 何かを言いかけた妖精は、穏やかな瞳に覗き込まれ、諦めたように息を吐きました。 「…本当に、それだけだからな」 * 太陽が沈み、空を譲られた月と星が、きらきらと光を落とし始めた頃。 妖精が心配した通り、娘は高熱を出して寝込んでいました。 高い熱を、汗で発散することもできず、内側に溜め込んだ娘は、苦しそうに胸を上下させながらも、それでも心配そうに覗き込んでいる妖精に、微笑みかけます。 「…ごめんね。ハックに心配かけてしまうって、わかっていたのに…」 「いいから無理するなって。…本当に、何でわかってて無茶するんだよお前は…」 季節の移り変わりの時期、そうでなくとも人間は体調を崩しやすいものです。 中でも、とりわけ今日のこの日は。一年のうちで、一番境界のあいまいになるこの日は、娘にとって、一年で一番体調を崩しやすい時なのでした。 「こちら側」の世界をいとおしみ、しっかり居場所を得てはいても、それでも少女の魂は不安定です。 「あちら側」からの干渉が強まれば、身体の弱い娘は、たやすく揺らいでしまうのです。 毎年、毎年のことでした。少女自身にだって、家人にだって、わかっていたはずでした。 熱を持った小さなてのひらを握りながら、悔しそうに言葉を絞り出す妖精に、娘はいっそう申し訳ない気持ちになりました。 妖精のてのひらは、娘のそれよりもすこし大きく、ごつごつと硬くて、ひんやりと冷たい温度をしています。 自分が寝込むと、いつも自分のてのひらを握って、勇気付けてくれる手です。 娘は、この妖精のてのひらの感触が、とても大好きでした。 ごめんね、と謝りたい言葉を飲み込んで微笑み、娘は別の言葉をくちびるにのせます。 「有難う…。ハックが手を握っていてくれたから、とっても楽になったみたい」 きっと、体調を崩して、こんな風にハックを心配させてしまう。みんなに心配をかけてしまう。 それがわかっていても、娘は手ずから「あちら側」の住民への贈り物を用意することを、諦めることはできなかったのでした。 心を込めた贈り物を、心をこめたメッセージを、どうか受け取ってほしい。 それが、彼女の願いでしたから――。 * 夜が支配する世界に、その住処を得た住民たちは、一年のうち、今日のこの日だけは、境界を乗り越えて、昼の世界に住む住人たちに、干渉をすることができます。 夜の世界の住民と、昼の世界の住民が、一緒になって夜の町を練り歩く祭り。 一家の住む家は、町からは少しばかり距離がありましたから、昼の世界の住民が訪れてくることはほとんどありませんでした。 それでも一家の玄関には暖かなオレンジ色の光が灯され、玄関口に用意されたテーブルの上には、たくさんのたくさんの甘いものが、重なり合うようにして載せられていました。 昼の世界の住民は、滅多に訪れることのない、この玄関に、それでも訪れる客はあとを絶ちません。 彼らは思い思い、好きなお菓子を手に取ると、それに込められたメッセージごと受け取って、夜の世界に帰っていくのです。
2008.10.18 |