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あれはおっかさんだった。間違いないよ。流れていく途中、ちゃあんと目が合ったんだ。
ごうごうと流れる水の中を、流されて、苦しそうにもがいながら、アタシに向かって手を伸ばしたんだ。

今ならわかるよ。あれはまやかしだった。あたりは真っ暗だっていうのに、おっかさんの姿だけは、はっきりと見えたんだものね。

勿論、その時のアタシには、そんなことわかりゃしなかった。びっくりしてね。
おっかさぁん、と大声で叫んで、川の中に入っていった。無我夢中だったよ。
流れは速くて、水底は深くて、アタシはあっという間に溺れかけた。
けど、それすらどうでもよかったんだよ。いっぱい水を飲みながら、頭が出るたびに、おっかさん!!と叫んで、がむしゃらに手を伸ばした。
やっと会えた、会いたかった会いたかった、会いたかったおっかさんが流れて行っちまう。ああ、早くあの手を掴まなけりゃ、って、それしか考えられなくてね。
けれど、川の水は容赦なくってね。着物はどんどん重たくなって、腕に足に絡まって、ああもうだめだ、沈む、と思ったときに、誰かがアタシの身体をがっしりと掴んで、水から引き上げた。

助かった、なんて思えなかったよ。だって、目の前に流されてどんどん遠くに行っちまうおっかさんの姿が見えていたからね。

「おっかさん、おっかさぁぁん!!」

叫んで手足を振り回して、何とかおっかさんに近づこうとアタシは暴れた。でも、アタシの身体を掴んだ誰かは、離してくれなくてね。ちっとも前には進みゃしない。おっかさんはどんどん遠くなる。アタシは必死だったよ。

「離せ、離せこの人でなし!!おっかさんが流れて行っちまう!!」

今思えばずいぶんな言い様だけれど、本当に必死だったのサ。恩人であるはずの誰かをさんざ罵って、でたらめに暴れたね。あの人のことも、ずいぶん蹴っ飛ばしたと思う。
けれどアタシの身体を掴んだ誰かは、手を離すでもなく、怒るでもなく、静かにこう言った。

「あれは、お前の母親ではない」

その途端、苦しそうにもがいていたおっかさんの姿が、ただの木片に変わったのさ。
しばらくは何がなんだかわからなくてね。悔しくて、哀しくて、アタシはわあわあ泣いたよ。
ああ、化かされたんだ、とわかったときには、アタシ達は岸に上がっていた。
誰かは、アタシが泣き止むのを辛抱強く待っていてね。ようやくアタシが顔を上げると、困り果てたように、すまなかった、と言った。まだ、ほんの子どもだったよ。アタシよりはずいぶん大きかったから、あの頃は若者のように見えたけれど。
すっきりとした顔立ちには、あどけなさがたんと残っていたよね。

ああ、この人は狐狸の類だ。アタシは騙されたんだ。そう思ったけれど、不思議と腹は立たなかったね。アタシの顔を、じっと見つめて、その人はぽつりと言ったから。

「人の子にも、情はあるのだな」、と。

その人が、すっと手を差し出すものだから、アタシはおとなしくその手をとった。何故だか怖いとは思わなかったんだよ。その人の目が、ひどく哀しげだったから。
穏やかに哀しみをたたえた瞳でね。おっかさんを亡くしたおっとさんの瞳によく似ていると思った。おそらく、アタシもあんな瞳をしていたんじゃないかねぇ。

さんざ歩き回って、皮の破れた足の裏が痛くてね。着物はぐっしょりと重いし、寒いしで辛かったけどね。唇を噛み締めて、こらえて歩いた。
アタシがびっこを引いていることに気づくと、その人は何も言わずに背中を貸してくれたよ。
優しい人だと思った。いや、人でないことはわかっていたんだけどね。ただ人を騙くらかすだけじゃない、ちゃあんと情のある生き物なんだってね。
おぶさると、木や草や、そんな山の匂いがしたよ。何故だろね、はっきりとおぼえている。
その人は、アタシをおぶったまま、ずんずん進んでいった。真っ暗な山の中をね。
不思議と不安はなかったよ。あの瞳を見て、すとんと信じちまったんだねぇ。

しばらく歩くと、いくつかの灯りが木々の間から漏れ見えた。里に着いたんだ。
里の入り口では、なんとおっとさんがアタシの名を呼ばいながら必死に探していてね。アタシはおぶわれた背からまろび下りると、転げるようにおっとさんの方へと駆けていって、しっかりと抱きしめてもらった。
お礼を言おうと振り返ったときには、あの人はもういなかったよ。黒々とした木々が、ただただざわめくばかり。


これも後から聞いた話だ。その里では、以前よく狐が出て、人を騙くらかしていたらしい。あるいは妖艶な美女、あるいは徳の高い坊様に化けてね。
それを、狐の仕業と見破った猟師が、ある日その狐を射ち殺した。白い、綺麗な女狐だったそうだよ。
それからだよ。山で旅人を騙くらかす子狐が出るようになったらしい。
荷を盗られるだけならまだ良い方で、悪くすると川に沈んで、そのまま浮かんでこなかった旅人もいたそうだよ。危うくアタシもそうなるところだったんだね。
里の人たちは、困ったものだと憤っていたものだよ。あいつら、心を持たない獣めらは、平気で人を傷つける、と言ってね。

けどねえ、アタシは思うんだ。人間は情がないと思っているその子狐は、母親を射ち殺されて、どんな気持ちがしただろう。
きっと、人間の方こそ情のない、残忍な生き物だって思ったんじゃないかねえ。
術をかけて欲しいものを見せつければ、食い物や金や、欲に目が眩んでね。いよいよ人間なんて、浅ましくてどうしようもない生き物だと思ったんじゃないか。
だけど、アタシが川で見たのは、亡くしたおっかさんだった。それが、アタシが一番に欲していた願いだったからね。
それを見て、あの狐は、人の子にも自分と同じように母を慕う気持ちがあるってことを、初めて知ったんじゃないのかい。それで、心を動かされて、助けてくれる気にもなったんだろうねぇ。


その後のことは知らないよ。アタシ達は、その里もすぐに後にしたから。
けれど、あの狐が憎しみの心を流して、心穏やかに暮らしていてくれたら、って、そればっかり願ってしまうんだよ。




「畜生でも、情をもって接すれば、想いは通じるんだよ。逆に手酷く扱えば、人を憎んで冷酷にもなろう。だからね、獣に心がないなんて思ってはいけないよ」

いつしか老婆の話に聞き入っていた子どもらは、遠くケェンと呼ばう声を聞いた。
あれは、先ほどの狐のお礼の声だろうか。






<了>







語り口も、話の雰囲気も、田辺聖子さんの「今昔物語」にめちゃめちゃ影響を受けています。
面白い、面白いです、今昔物語!古典に目覚めてしまいそう(笑)
とはいえ、このお話はなんの考証もしていない想像の産物なので、いつの時代とも、どこの場所とも知れないお話になっております…。(しかもベタ)

この子狐、語り手のお婆さんにも、里の人にも狐だと思われていますが、実は山に産み落とされて狐に育てられ、幻術をおぼえた人の子、という裏設定があります…。(そんなめちゃくちゃな!)
この子を主人公にしたお話を作れないか、思案中…(笑)

読んでくださって、有難うございました!

2007.2.14