訪問者

 

 

足立郡に貴人の輿が到着したのはその日の昼下がりの事だった。
人々が口を開けて見守るなか、輿から下りたのは熟年の女性で、身なりは整っているものの疲労の色が濃く顔色に出ていた。
女性は何人かの供を従えて、竹芝の屋形にまっすぐ進んでいった。


苑上はその時、井戸で水を汲んでいる所だった。
最近ようやく郷の娘達にも受け入れられ、井戸に来る事が苦痛ではなくなってきている。
苑上が竹芝に着いた当初、彼女は阿高を奪った憎い敵として娘達にかなりとげとげしい態度を取られたが、苑上の阿高を想う気持ちが伝わったのか、めげない姿勢に諦めたのか、
はたまたあまりの頼りなさに見ていられなくなったのか、娘達の態度は日ごとに軟化していた。
苑上のあまりの物知らずは皆をたいそう呆れさせているが、まっすぐな人となりは同じ郷に生きていく者として認められたようだ。

(やればできるものだわ)

せっかく汲んだ水をこぼしてしまわないよう、慎重に桶を運びながら苑上は微笑んだ。
つるべの扱いも知らなかった苑上が、今は井戸から汲んだ水で米を研ぐ事もできる。
苑上の炊いた飯は、どう言うわけかいつも固すぎたり柔らかすぎたり、なぜか白くなかったりするが、進歩しているとは思う。



あと少しで屋形に着くというところだった。

「苑上さまぁ!」

大声で呼びかけられて,仰天した苑上は思わず桶を落としてしまった。

「・・・・・・!」

声にならない悲鳴を上げて、地面に吸い込まれていく水を悲しく見守っていると、声の主が駆け寄ってきて苑上に抱きついた。

「お探し申し上げました苑上さま!このような所でそのような格好をなさって・・・」
「な・・・!は、榛名!?」

間違いもない。駆け寄ってきた女性は苑上の乳母、榛名だった。



「鈴になにか用ですか?」

ちょうどよく屋形から出てきた阿高が少し緊張した面持ちで榛名に訊ねる。
榛名の身なりを見れば、都人だということは明らかだ。

「鈴?鈴とは誰の事です?」

苑上を離した榛名が、阿高に向き直ってつっけんどんな声を出す。

「あ、あのね、榛名・・・」
「わかっております。わかっておりますが言わせてくださいまし。」

阿高に視線を据えたまま榛名がつづける。

「そなたが阿高ですか?」
「・・・そうです」

緊張しながらも、挑むように阿高が答える。

「わたくしは苑上さまの乳母をしてまいった者です。今日は帝の意思を伝える使者として参りました。」
「お父さまの!?」

再び驚いて、苑上が声をあげる。

父帝には、仲成を通してたとえ罰されようとも自分はこの地に居たい、と伝えたはずだった。では榛名はその返答を運んできたというのか。
「・・・お父様はなんと仰っていた・・・?」

とうに覚悟はできていたものの、恐る恐る苑上が訊く。しかし榛名は、阿高から視線を離さない。

「・・・たとえ帝がお許しになっても、苑上さまを不幸にさせたらこのわたくしが許しませんよ」

睨みつけるような強いまなざしを正面から受け止めて、阿高は静かに言った。

「鈴は、必ずおれが幸せにします」
「若いうちは皆そのように思い込むもの。苑上さまはこの国にとって大切なお方。その重さをそなたは負えるのですか?簡単に苑上さまを幸せにすると言いましたね。その言葉に責任を負う覚悟のない者には苑上さまはお渡しできませんよ」

榛名の厳しい言葉を受けても阿高はひるまない。

「覚悟がなければ鈴を盗もうだなんて思いません」

重ねて、一言一言かみしめるように言う。

「鈴は、必ず、おれが幸せにします」

榛名の背後に立っていた苑上には、このとき榛名の肩の力が抜けるのがわかった。

「・・・その言葉、確かに受け取りましたよ」

言って榛名はずるずると座り込む。

「榛名!?」

遠巻きに見ていた供人が慌てて駆け寄るよりも早く、阿高が背中を差し出した。

「母屋に運ぼう。長旅がこたえているんだ」
「わ、わたくしも行くわ!」






「・・・申し訳ありません・・・」

用意された布団に身を起こし、榛名が詫びた。

「疲れているなら疲れていると言って頂戴!大体、どうして榛名が使者なの?」
「わたくしが自ら志願したのです。」
「なんだってそんな無茶・・・って、それ以前にあなた都にいなかったのでは?」

確か、苑上の伊勢行きを機に、夫の任国に下ると言っていたはずだ。

「大国に参る途中で伊勢の社が焼け落ちたという報せを聞いて、慌てて戻ったのですよ。そうしたら苑上さまは伊勢にはいらっしゃらない。都にもいらっしゃらず、明玉の主と東国へ下ったと言うではありませんか!榛名がどれだけ肝をつぶしたかご察しくださいまし・・・」

目頭を押さえながら榛名が嘆いた。
更に苑上の手を取って嘆きを深くする。

「一筋縄ではいかない方だとは存じておりましたが、ここまで無茶をなさるとは。
このように荒れた手をなさって。少しお痩せになられたのではありませんか?ああ、それに・・・」
「榛名」

今まででいちばん優しい声で苑上は榛名の言葉を制した。
役目を終えたはずの乳母が、ただ自分の身だけを心配して、無理を通して会いにきてくれたのだ。

(わたくしは、いろいろ誤解していたのだわ・・・)

こんなに大切に思われている自分を、都では自覚する事ができなかった。

「どうか嘆かないで。わたくしは生涯で一番大切と思える人を見つけたの。わたくしは今とても幸せよ。本心からここで生きていきたいと思っているの」
「苑上さま・・・」

その夜、苑上は久しぶりに榛名と枕を並べて眠った。





「鈴として、生きていくのですね?」
「ええ」

出発の朝。榛名は名残惜しそうに苑上を見つめる。


『内親王の苑上という少女は御所の火災によって命を落とした』


それが帝のこたえだった。
自由にして良い、と言う事ですよ、と耳打ちして榛名は瞳を赤くしたものだ。

「わたくしは竹芝の鈴として生きていくの。今までありがとう、榛名。」

榛名の手を取って、苑上はにっこりと笑う。目頭が熱くなったがなんとかこらえた。
榛名はと言うと、絶えきれずに嗚咽を漏らしながら強く苑上の手を握り返す。

「どうか、この上の無茶はなさらずに。わたくしは、どこにいても苑上さまのことを想っておりますよ。」

そして、同じく見送りに出た阿高のほうに向き直る。

「どうかわたくしに、苑上さまを手放した事を後悔させないでくださいましね。苑上さまのことをよろしくお願いします。」

そう言って、深々と頭を下げた。








「・・・行っちゃったな・・・」
「・・・ええ」

輿が見えなくなるまで見送っていた苑上は、屋形に戻るでもなく都の方角を見つめ続けていた。

(鈴は、いろんなものと別れを告げてきたんだな・・・)

寂しそうな横顔を見て阿高が胸が痛むのを感じていると、その横顔が突然振り向いた。

「ところで阿高、昨日わたくしのこと、幸せにするって言ったわよね?」
「あ、ああ」
「阿高はなにがわたくしの幸せだかわかる?」
「え・・・」

思わず阿高は考え込んでしまう。
鈴にはいつも笑っていて欲しい。そのために必要な物。

「・・・都にいた時と同じというわけにはいかないけど・・・。ひもじい思いや苦しい思いはもうさせたくないな」
「もう、それではわたくしは子どもと同じじゃない」

むくれて苑上は口を尖らせる。

「阿高と一緒にいることが幸せだって、もう何回も言っているのに、どうして阿高はわかってくれないの?」

榛名そっくりの態度で嘆く姿に、ついつい阿高は笑ってしまった。

「もうっ!なんでそこで笑うの?」
「悪い悪い、それだったら簡単だなと思って。」

なんとか笑いを微笑みに押さえて阿高が言うと苑上は更にふくれた。

「簡単ではないわ。だって阿高ったら、いつもわたくしのことを置いていってしまうじゃない」

すねた態度に本物の不安が見えたと思った。

(鈴はこれが言いたかったんだ・・・)

阿高は苑上に向き直ると、真摯な気持ちで思いを告げる。

「もう置いて行ったりしないよ。鈴と一緒に生きていきたい。そう思ったからお前を都からつれてきたんだ。」
「・・・阿高・・・」
「今まで気がつかなかったけれど、おれの幸せも鈴の幸せと一緒みたいだ。だったら叶えるのは簡単だって思わない?」
「・・・ええ」

呆然と口を開けた苑上は、次いで大きくうなずいた。

「ええ!」

阿高は微笑む。



どちらともなく手を取り、二人は歩き出した。




(榛名、わたくしは幸せになるわ)




阿高の肩越しに見た空は広く、青く、澄み切っていた。



「阿高、竹芝っていいところね」
「ああ」
「今日は白和えを作ってあげるね」
「あ、ああ・・・」





 




あとがき・・・?

な、長いですね、ごめんなさい;
文章だけでこの表示の遅さってどうなの、みたいな。
でも自分ではそれなりに気に入っているものだったりします。これも使いまわしですが;;
「訪問者」には、同じタイトルで続きのようなものもあるので、またアップしたいと思います。
それにしても榛名が訪ねてくるという設定には無理があったかなぁ…