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射し込む光が激しさをひそめ、心地良い風が吹くようになった。
少しずつ夜が早くなり、陽が落ちると聴こえる虫の音には秋の気配が濃厚だ。

機織り小屋の千種の元に、従姉妹の綾音が訪ねてきたのは、開け放った小窓から入る風に身を委ねながら、そろそろ一日の仕事を終えようとしていた時だった。









          祈り、繋ぎとめるもの      









「そう、二連が帰ってきたの」
「あら、姉さん、驚かないの?」

綾音が千種に持ってきた知らせは、長らく消息を絶っていた隣郡の二連が竹芝に戻ってきたというものだった。

年頃の娘たちの興味の矛先はいつも同じであり、健やかな娘である綾音も、もちろんその例外ではなかった。
それにしても、日下部とは犬猿の仲の隣郡にありながらも、娘たちを惹きつけてしまうのだから、二連には恐れ入る。

嬉々として語る従妹の話に耳を傾けた千種は、穏やかに微笑んだだけだった。
若い娘なら当然見せる反応を期待したらしい従妹は首を傾げるが、すぐにこの巫女とも呼ばれる従姉が、現世の、それも異性の話題になど興味を示すはずが無かったのだ、と納得したようだった。

実のところ、二連の安否について、誰よりも真摯に祈りを捧げていた娘はこの従姉であったのだが、綾音には知る由もない。





藤太が武蔵に戻ってきたことは、わかっていた。

藤太が命の瀬戸際に立たされたときには、取り乱しそうになる心を必死でなだめて、糸に想いを込めて祈り続けた。


たったひとりの大切なひと。
失うことなど考えられない。
すぐに会って、抱きしめて、瞳を見つめて励ましたかったが、千種はそうはしなかった。


ただひたすらに、神に祈る気持ちで機を織り続けた。

瀬戸際で藤太と言葉を交わしたあの日から、少しずつ藤太の命の光が強さを取り戻し始めたことは、わかっていた。

時間をかけて、身体の傷を癒した藤太が、武蔵に向けて旅立ったということも、先ごろようやく竹芝の地を踏んだことも。


藤太が誰よりも心にかけていた相棒の命運は、千種の手には余ったが、二連が戻ったということは、藤太は無事、阿高を取り戻すことができたのだろう。





(本当に……良かった……)





今はただ、大切な人が戻ったことが、彼の願いが叶ったことが嬉しく、幸せだった。

「それでね?姉さん」

異性の話に興味を傾けない従姉を話し相手にしたことに、少々及び腰になりながらも、ここからが大切なのだ、と綾音は意気込む。

「二連の阿高がね、都から女の子を連れてきたのですって!」
「……阿高が?」

糸を通して、藤太のことは感じることができた。
けれど、阿高のことまではわからなかった。

だから、綾音の言葉には心底驚き、従妹の顔をまじまじと見つめてしまう。

ようやく従姉から反応らしい反応を引き出した綾音は、満足そうに笑った。

「そうなの。姉さんも知っているでしょう?阿高って、顔は綺麗だけれど無愛想な方」




誰にでも優しい藤太とは違い、男の子同士では楽しそうに笑うくせに、女の子には笑顔のひとつも見せなかった二連の片割れ。
それでも絶えず娘の心を掴んで離さない、魅力的な若者だという話だ。

その阿高が、都から女の子を連れ帰ったという。
綺麗な着物を着た娘を、大切そうに馬から下ろす仕種に、竹芝の娘たちは仰天したという。

波のように寄せられた娘たちの好意に、ただの一度も応えたことの無かった若者のこと、その驚きは当然だろう。




「竹芝の娘たちは皆、たいそう仰天したそうよ。それはそうよね、だって藤太ならともかく、阿高なんだもの」

竹芝と日下部の娘たちの間には、若衆たちの間にあるような剣呑とした空気は無かったが、それでも良い印象を持つには至らない。
竹芝の娘たちの落胆に、綾音は少しばかり愉快そうだった。

「それにしても、一体どんな女の子なのかしらね?あの阿高を振り向かせるだなんて」

首をかしげるようにして綾音は呟く。
隣郡にまで聞こえるほどの人気を持ちながら、隣郡に聞こえるほどの娘嫌いの阿高のことだ、若い娘である綾音が気にするのも当然のことだろう。

「そうね、どんな女の子なのかしら」

それでも、巫女と噂される千種が、自分と同じように興味を持つとは思わなかったようである。
綾音はびっくりしたように千種を見返した。

従妹の視線に気づいた千種は、少しばかり赤らんで、やや慌てているようだった。

「そろそろ陽が沈むわね。もう小屋を閉めなくては」

もの珍しそうにそんな千種の表情を見つめていた綾音は、小屋の外に目をやり口元に手を当てた。

「本当。ごめんなさいね、長居してしまって」
「いいえ、楽しかったわ。有難う、綾音」














従妹とともに機織り小屋を出て、鍵を閉めると、千種は闇に沈み始めた小川を、その向こうを見るとも無く見つめた。



阿高が女の子を連れて帰ったというのなら、おそらくもうひと騒動くらい、何かが起こることだろう。

藤太が自分を迎えに来るのは、少々遅くなるかもしれない。

それでも、千種には残念という思いは少しも無かった。






『藤太、おれは、だれなんだ』


闇のような納屋の中、小さな灯りに照らされて悲痛な表情で叫んだ。あれが、千種が阿高を見た最後だった。
誰よりも信頼する藤太にすら背を向けて、たった一人で消えてしまった。

阿高を追い詰めたのは自分だ。
彼が誰よりも心を寄せる藤太を、奪ってしまった。
……そう、思わせた。

実際は、藤太の心はいつだって阿高に寄り添っていたのに。
それなのに、あの時の阿高は、まるで、世界中でたった一人になってしまったかのような顔をしていた。


自分が阿高を追い詰め、結果、藤太をも危険な旅に赴かせてしまった。

その罪悪感は、いつだって千種の胸の中にあった。


藤太の無事とともに、阿高の無事を願う心の根には、その罪悪感があったのかもしれない。




けれど、今この胸の中にある想いは。

胸の中に広がる、温かさは。

阿高が伴侶を連れてきたことへの安堵感は、罪悪感からばかりではないだろう。

あの、悲痛な心を持った若者が、真に自分の居場所を見つけて、礎を築くことが出来るというのなら。





双子のように、いつも隣にいた藤太にさえ、追いつけなかった阿高に追いつき、つかまえてくれた。

阿高を救い、藤太を返してくれた。


その娘は、一体どんな娘なのだろう。






いずれ、藤太は自分を迎えに来ることだろう。

遅くなってごめん、と頭をかきながら、あの小川の向こうからひょんと現れるのかもしれない。



いずれ、自分は竹芝に向かうことだろう。

阿高が連れてきた娘とも、きっと会えることだろう。




どんなに強く願っても、叶う願いばかりではない。
それは千種も知っている。

けれど、阿高は戻ってきた。藤太は、取り戻すことが出来た。

それは、きっと―――





――貴女のおかげで、藤太は帰ってきた――





彼女に会えたら、きっと心からお礼を言おう。











瞬き始めたばかりの星の光と、細い虫の音が、穏やかに千種の心を満たしていた。















ものすごく久しぶりの薄紅小説になりました^^;
千種の話を書くと、どうにも必ず綾音が出張る不思議…(笑)
案外、綾音のことも気に入っていたのかもしれませんね。

実際は千種って、藤太を想う気持ちを通じて、阿高や苑上のことも何となくわかっていたような気もするのですが…。
もし、苑上のことを知らなかったとして、そのことを知らされたら、やっぱり驚いたのではないかなあ、と。
そんな想像から書いてみました。

千種の藤太への想い、阿高への想いが交錯して、なんだかよくわからなくなってしまいましたが;
要するに、千種から苑上に向けた、最初の想いが描いてみたかったのです^^








2006.10.1