prologue  side Hack





静かに深まった夜。
風が木の葉を揺らすことも、ミミズクが歌うこともやめた森の中は、真の静寂に包まれ、冴え冴えとした月の光が、いっそ、うるさく感じられるほどだった。

月の光は銀色に優しく、カーテン越しに、部屋の中にもその軌跡を描いている。
その淡い光を浴びて、静かに眠る少女の額にかかった髪をそっと払いながら、妖精は息をついた。

――こんな月の夜には、「あちら側」の力が強くなる。

もとより、「あちら側」から干渉されやすい少女だ。今夜の発作は相当に苦しかったことだろう。
それでもこの少女は笑うのだ。

彼女が幼い頃には、発作の時に彼女を励ますのは専ら彼の役目であったのに、最近では発作の中にあってさえ、むしろ彼が彼女に励まされることの方が多い気がする。



『ありがとう。ハックが手を握っていてくれたから、とっても楽になったみたい……』



眠りに落ちる前、少女はそう言って微笑んだ。
余計な気を遣っている余裕など無いはずなのに。病の辛さで精一杯のはずなのに。
それでも自分のことより、相手のことを優先して考えるのだ。この少女はいつだってそうだ。

払った前髪は細く柔らかく、自分のゴワゴワと硬い髪質とはずいぶん違う。
その髪の毛が、うっすらと濡れているのを知って、ハックは少女の額の汗を拭った。
春先とはいえ、夜の森は深々と冷え込む。この上風邪を引いてしまっては大変だ。


淡い光に照らされながら眠る少女の顔を静かに見つめていた妖精だったが、気配を感じてふと顔を上げた。
森の中に一軒だけ建つ、小さな家。
この家のすぐ近くに、彼もよく知る存在が降り立った気配があった。












音を立てないよう、静かに扉を閉めて、表へ出る。
キン、と透明な空気に包み込まれた森は、銀色に射す月光のためか、幻想的に美しく、いっそう強く「あちら側」の存在を感じさせた。

「あちら側」は、自分にとっては故郷でもある。いつかは、帰る場所だ。
けれど、「こちら側」の住人と共にあることが自然である自分にとっては、「あちら側」は近しい場所ではなかった。「こちら側」にいる限りは、足を踏み入れることはない。
ひとの世界で暮らす妖精たちにとって、「あちら側」の近しさはそれぞれに違うのだ。

自分と同じ根を持ちながら、よりいっそう「あちら側」に近い存在。
同類でありながら、決して同類ではない。
彼の目の前に降り立った少女の形をしたモノは、そういった存在だった。





「……いったい、何の用だよ」
「あら、ずいぶんなご挨拶ね」

開口一番、不機嫌さもあらわに、批判をこめた言葉を放つハックに、妖精の少女は顔をしかめた。
けれど一向に堪えた様子はなく、ツンと顎をそらして、尊大に少年を見下ろす。

「アンタなんかに用があるわけないじゃない。自惚れるのもたいがいにしたら?」
「そりゃあ好都合なことで。こっちとしてもお前なんかに用はないね。とっとと出てってもらえたら有難いんですがね」
「誰がアンタを有難がらせたりするもんですか。それにしても、久しぶりの客人にお茶のひとつも出せないわけ、アンタってば?そういうの、家付き妖精の名折れって言うんじゃないの」
「どこに害虫をもてなす妖精がいるもんか。お前本当に、何が目的だよ」

全身に敵意をみなぎらせている少年は気づいていなかったが、害虫、という言葉に、少女はさすがに気分を害した様子を見せた。
けれど、あとに引き摺ることはなく、大きくため息をつく。


「……別に、今更どうこうしようだなんて、思ってないわよ。でもそこまで邪険にされるとさすがに腹が立つわね」
「……お前、それ、さも自分は寛大です、みたいな口ぶりだよな……」
「だれかれ構わずギャンギャン吠え立てる下僕妖精に比べたら、天使みたいに寛大でしょうよ」

相変わらず、二人の妖精の間に行き交う言葉は友好的なものではなかったが、先ほどまで漂っていた、剣呑とした空気はずいぶん薄らいだようだった。
下僕言うな、とぼやきながらも、少年の表情はいくぶん柔らかいものに変わっている。
出会いを思えば、再会を喜べる相手ではない。まして、相容れることなど出来る存在ではない。
けれど、彼女はすでに警戒対象ではないはずだった。



「で?まさかおれに会いに来たわけじゃないんだろう?」

条件反射のように暴言を放ったことを、ほんの少しだけ後悔しながら、ハックは本題を促すように問いかけた。
警戒対象ではないといっても、彼女が今ここにいるのは解せない話だ。
彼らがひとりの人間を介して出会い、そして別れたのは、十年以上も以前のこと。









永い時を生きる彼らにとって、それはたいして昔の話ではなかった。
けれど、ひとにとっては、それはずいぶん昔の話になるのだろう。

















2008.1.12