ぐるり、と季節がひと回りしました。 暖かな森の中に咲く花々は可憐で、強い陽射しに照らされた緑は生き生きと輝き、季節の移ろいに伴い、その緑の色が変わり始めていました。 赤や黄色に色づいた葉の影で、豊かに実った木の実を集め、動物達は冬ごもりの準備を始めています。 太陽のように朗らかな娘のいない一年は、ひどくのろのろと過ぎていったように思えました。 それでも、森の中の小さな家の住人達は、その一年を、必死に生きてきたのでした。 森の中の小さな家で 最終話 木枠をバン、と鳴らしてひとつの窓が開きました。 冬支度を始めた森の中で、小さな家の住人達も今日一日の活動を始めたのです。 窓を開けると、真っ白なカーテンが、冷たい風を受けてヒラヒラと踊ります。 その部屋は、一年前に主のいなくなった部屋でした。 主がいなくなった後も、それ以前と同じように、何一つ動かすことなく、毎日綺麗に整えられている部屋でした。 窓から入る冷たい風に、家政婦のシエラは首をすくめました。 暖かな陽射しを感じられるとはいえ、風の温度はもうすっかり冬のそれです。 ひゅう、という風の音にあわせてカーテンがヒラヒラと舞い、ガラスがカタカタと鳴りました。 冷たい空気でしたが、それでも清々しい外気に触れるのは、気持ちの良いものです。 「さて、始めましょうかね」 景気づけに呟くと、家政婦ははたきを手に、窓枠やタンスの上の埃を、ハタハタと払っていきました。 エレナがいなくなってからも、こうして毎日、彼女の部屋にははたきがかけられ、ごみは箒で掃きだされていました。 季節の変わり目ごとに、柔らかなシーツやカーテンも、時には彼女の大事にしていたぬいぐるみも洗われ、その部屋はまるで主の帰りを待っているかのようでした。 大まかに埃を清め終わった頃には、身体がホカホカ温まり、冷たい風も気持ちよく感じるほどになっていました。 拭き掃除をする前に、シエラは窓辺に寄って、しばし外の景色を眺めます。 赤や茶色の葉を、まだ少しだけつけた木々。 その根元には、柔らかな土の上に、ふっさりと落ち葉が降りつもっていました。 落ち葉の甘いようなにおいが、風に運ばれて、部屋の中にも入ってきます。 風に動かされた葉が鳴らす、カサカサという音。 動物たちがたてる、かすかな物音。 ここから、エレナは季節の移ろいを見守っていたのだ……。 ぼんやりと、考え込みそうになったとき、ひときわ強い風がびゅうと吹き、シエラは慌てて首をすくめました。 さすがに冷たい風に、そろそろ窓を閉めようと、木枠に腕を伸ばしたときです。 季節はずれに、一匹の蝶々がひらひらと舞うのを見て、シエラは目を見張りました。 灰白に沈みかけた、冬の始まりの空気の中で、淡く金色に輝くようなその翅は、ひどくくっきりとした印象でした。 頼りなげに翅を動かしながら、その蝶々が部屋に入ってくると、はっとしてシエラはその行方を追います。 「ちょ、ちょっとちょっと……」 すっかり冷え込んだ外気から、部屋の中の温かさを慕ってきたのかもしれませんが、エレナの部屋に居座られては困ります。 「駄目だよ、ここはアンタのいるところじゃないんだから……」 そうは言いながらも、どこか目的ありげなその動きに、追い出すことも忘れて、シエラは見入ってしまいました。 蝶々が舞うと、気のせいか、淡く金色のりんぷんがその軌跡を描き出すかのように輝きます。 それは、どこか、この世のものではないような美しさを持った光でした。 ひらひらと、家政婦の視線を惹きつけながら、蝶々は飛んでいきます。 部屋の中、ベッドの上まで飛んでいくと、そのままふわりとベッドの脚元に舞い降り、翅をたたんで、わずかな隙間からベッドの下に入っていってしまいました。 シエラはびっくりしてベッドに近づくと、おそるおそる、この間洗濯したばかりの、白いシーツをめくりました。 一体、この蝶々は何者なのか。かすかに心臓が鳴っています。 果たして、不思議な蝶々はそこにいました。 ひとかかえほどある、白い箱の上にとまり、シエラが気がつくのを待っていたように、二、三回翅をはたはたと動かします。 それは、まるで、人間がもの言いたげに、首を傾けるような仕種に思えました。 「……これは、一体……?」 なかば夢うつつで、その白い箱を家政婦が引き出すと、満足したように蝶々は、再び舞い上がりました。 金色のりんぷんは、ちっとも不快ではなく、優しく、心温まるような光でした。 シエラはそんな光は見たことがありませんでしたが、一方で、心のどこかで知っているような気がしていました。 今にも、この部屋から去って行ってしまいそうな蝶々に、何故か慕わしいものを感じて、シエラは思わず腕を伸ばします。 すると、シエラの想いを感じたように、金色の蝶々はひらひらと向きを変えると、伸ばされた指先にふわりととまりました。 胸の中いっぱいに、愛しいような気持ちがこみ上げてきました。 「あ……あなたは……」 指先を凝視しながら、やっとの思いで声を出すシエラの前で、蝶々ははたはたと金色の翅を動かしました。 それはまるで、いたずらっぽく少女が微笑んでいるような仕種で。 ―――どうも、ありがとう――― 懐かしい声を、聞いたと思った瞬間、今度こそ蝶々はシエラの指を離れ、開いた窓から、灰白の世界に飛び立っていきました。 残された家政婦は、頬を涙が伝っているのにも気づかずに、白い箱を抱きしめたまま、いつまでもその小さく頼りない金色が飛び去った先を、見守っていました。 ***** ***** ***** ***** ***** ***** まだ薄暗いうちから準備をはじめ、朝日が昇った頃からハックは薪割りをしていました。 家人が寝静まってから活動を始める妖精ですが、薪割りの音はよく響くため、家人の眠りを妨げないよう、夜が明けて、家人が活動をし始めてから仕事にかかるのです。 コーン、コーン、と、薪が割られる音が、森の中に響きます。 家の中の仕立て職人と家政婦は、ちょうど食事を終えたところでしたが、妖精の働く音を耳にすると、顔を見合わせて頷きました。 どこか緊張感の漂う、神妙な面持ちをした家政婦をなだめるように、仕立て職人が柔らかく笑って、その背を促します。 その手には、ひとかかえほどある、白い箱が、しっかりと抱えられていました。 冬に向かう季節の中、早朝の森は薄い靄を漂わせながら、シンと冷え込んでいます。 淡く霞んだような景色の中で、一心に薪割りをする妖精の姿は、どこか幻想的に見えました。 コーン、コーン、と、一定のリズムを刻みながら、妖精は手際よく薪を作っていきます。 数あるブラウニーの仕事の中でも、特にハックは薪割りが上手なのです。 彼の機嫌の良いときには、まるで歌うように軽快な調子でこの音が森の中に響き渡ったものです。 今響き渡るこの音は、コーン、コーン、と一定で、単調なリズム。 妖精の心の時間が止まってしまった一年前のあの日から、薪割りのリズムは変化を見せることはありませんでした。 からっぽの心のまま、それでも黙々と働いている。共に暮らす仕立て職人と家政婦には、それがよくわかっていました。 しばらく、オリバーとシエラは、一心に働く妖精の姿を見つめていました。 いつまでも、このままハックのことを見つめていたい想いにとらわれそうになりながら、それでもオリバーは息を吸い込みます。 「やあ、おはようハック。精が出るね」 薪割りの音に混じって聴こえた仕立て職人の声に、ハックはのろのろと振り返ります。 すでに、足元にはずいぶんたくさんの薪が出来上がっていました。 これだけあれば、しばらくは薪の調達には困らないでしょう。 「……ああ」 夜通し家の中を綺麗にしてからの作業でしたが、別段それで疲れた、というわけではありません。 ただ、人と話をするのが億劫で、振り返る仕種が必要以上に重たいものになってしまうのです。 それでも、振り返った先に、仕立て職人と家政婦の二人が立っているのを見て、ハックは少しばかり驚きました。 娘がいなくなってしまってからというもの、この家の家族が同じ場所に揃うことは、あまり無かったからです。 二人が顔をそろえて、一体何の用事だ、と訝しげに首を傾ける妖精に、仕立て職人は穏やかに笑いかけます。 「薪割りは、もう終わったかな。まだだったら、あとは僕がやるけれど」 「……何の真似だよ、一体。お前、薪割りなんて出来るのかよ」 「おやおや、それはまたずいぶんな。最近こそ君に任せっぱなしだったけれど、僕だって薪を割ったことくらいあるさ」 「もう終わったからいいよ。あと、片付けるだけだし」 今にも腕まくりをしかねない様子のオリバーに、ハックが面食らって言い返すと、仕立て職人は隣に立つ家政婦と、視線を交わしました。 「そうかい。じゃあ、片付けるのはあとでやるとして、少し、話をしないかい」 不審げに首を傾ける妖精には構わずに、二人は彼にそばに歩み寄りました。 カサカサと音を立てて、風が落ち葉を動かします。同時に、森を包んでいる薄い靄も、ゆっくりと流れていきました。 落ち葉の甘いようなにおいが、ふわりと鼻先を掠めます。 チチチ…と、朝を楽しむ小鳥の声が、どこからともなく聞こえていました。 いつもの森の景色の中で、小さな家に住む、家人たちの心持ちだけが、いつもとは異なっているのでした。 「いつだったか、君は言ったね。君の罪は、許されなかった、と」 ひどく静かな声で、オリバーが切り出しました。 ハックは緊張したように身を固めましたが、オリバーの声には、ただ柔らかな響きがあるだけで、そこには妖精を責める意志も否定する意志も、感じられませんでした。 「…そんなことは、なかったようだよ。君の罪は、とっくに許されていたんだ」 「……何を言っているんだよ?言っただろう、おれは」 「これは、君のものだ」 戸惑う妖精を、じっと見つめたまま、オリバーは手にした真っ白い箱を、真っ直ぐに差し出しました。 一年ほど前、同じようなことがありました。 あの夜、仕立て職人は、素晴らしい出来あがりの上着をハックに差し出したのです。 その時の胸の痛みを思い出して、思わずハックは逃げ出したくなりました。 けれど、何かが心をくすぐって、その場を動けなくなってしまうのです。 「君には、わかるんじゃないかな。僕はそう思ったんだけれど」 「………」 何が、こんなに気になるのでしょう。自分に与えられるものなど、あるはずがないのに。それは、自分が一番よくわかっているのに。 それでも、その場から逃げ出すことも出来ず、ハックは怯えたようにオリバーと箱を、交互に見つめます。 そんなハックの様子を感じて、オリバーは瞳を伏せると、箱のふたに手をかけました。 ゆっくりと、箱を開けながら、重ねて告げます。 「これは、君のものだよ」 「……!」 何がこんなに心をくすぐっていたのか、今となっては明確でした。妖精にわからないはずがありませんでした。 箱の中から姿を見せた、柔らかな緑の色をした一揃い。 それは、お世辞にも仕立てのきちんとした服とは言えない出来でしたが、それでも、その一揃いから感じられる光に、妖精が気づかないはずがありません。 懐かしい、懐かしい光でした。 きっと、ハックにしか見えていない、清らかで柔らかな光でした。 もう、二度と見ることはないと思っていた光でした。 エレナは、旅立つ前に、ちゃんと約束を果たしてくれていたのです。 今日より少し前の朝、シエラが見つけた箱がこれでした。 不思議な蝶々に導かれて見つけた箱。 思えば、娘の部屋には、父親も家政婦も出入りしていたのに、毎日きちんと掃除をしていたのに、それなのに今までこの箱に気づかなかったことの方が、おかしなことかもしれません。 それが、エレナの意思だったのかもしれないね、と、話を聞いたオリバーは呟きました。 悲嘆にくれる家族に、それ以上の別れを与えないために。 けれど同時に、誰よりも心にかけていた妖精のことも、どんなにか心配していたことでしょう。 ずっと、きっと、娘は自分たちのことを見ていたのです。今も、どこからか見ているのかもしれません。 愛する家族達の嘆き悲しむ姿に、娘はどれほど心を痛めたでしょう。 けれど、今、エレナの遺志がシエラの手に渡りました。 ―――もう、大丈夫だね――― それは、娘のそんなメッセージのように感じられるのです。 「やっと、あの時のエレナの気持ちがわかったよ」 言って、オリバーは緑色の一揃いの上に、赤いリボンを置きました。 淡くもなく、濃い緋色でもない、夕陽に照らされた楓の葉のような色。それは、あの日、妖精が街で買い求めてきたものと、よく似た色合いでした。 最後の日にエレナが求めていたものは、自分のためのものではなく、共に暮らす、大切な妖精のためのものであったと―― ハックの瞳が揺れました。もう、ためらうことはないのです。 それでも、箱に伸べようとする腕を、最後の抵抗が引き止めます。 「でも……それじゃあ、お前がひとりになっちまうじゃないか……」 契約は成ったというのに、なんと情の深い妖精でしょう。心を打たれて、思わず言葉を失った仕立て職人に代わり、ずっと二人の会話を見守っていた家政婦が、一歩を踏み出しました。 「私のことを、忘れてやしませんか」 「………」 妖精は、何も言い返しませんでしたが、いかにも胡散臭そうに目を細めます。シエラはむきになって言い募りました。 「そ、そりゃあ、確かに私はがさつですけど。でも性悪妖精にずっとしごかれてきたんですもの、少しは成長してるはずですよ!」 「……まあ、それは認めるけど……」 「……!!」 渋々認めたハックの言葉には、シエラばかりかオリバーまでもが目を見張りました。 この妖精が、家政婦を肯定する言葉を口にしたのは、これが初めてだったのです。 そんな二人の反応に、ぎょっとしたようにハックは赤くなりました。しまった、というように、口をふさぎます。 それは、ここしばらく見たことがなかったような、生き生きとした反応でした。 「でも仕事が荒いことには変わりないからな!灯りや額縁の裏の掃除とか、したことないだろお前」 「失礼な!どこからそんな言葉が出てくるんですか。昨日だって綺麗に掃除したばっかりじゃないですか!」 「だから未熟者だって言うんだよ。額の裏にくもの巣が張っていたぞ、今日」 「ええ、今日…!?そんなはず…!」 久しぶりの口喧嘩でした。本当に久しぶりに、二人の口から生き生きと飛び交う応酬に、オリバーは胸がいっぱいになったような心地です。 ひどく懐かしいその喧騒に、冬ごもり前の動物達も、森の家を遠巻きにかこみ始めていました。 「おれに鍛えられたくらいでいい気になってたら全然まだまだだぞ!おれは、ブラウニーの中でも特別性格の良い方なんだ」 「自分で言いますか。って、そんな風には全然思えないんですけどね」 「今に思い知るぞ。オリバーは腕の良い職人だからな、妖精に好かれやすいんだ」 え…、と言葉を詰まらせて、シエラは隣のオリバーを見上げます。オリバーは笑いを堪えているような表情で目配せしました。 「腕の方はどうとも言えないけれど、確かに若い頃から妖精にはよく好かれるみたいだね」 そして、そのままの表情で、シエラをやり込めたハックを見つめました。 「大丈夫だよ。それは、君がいなくなったらとても淋しいけれど、でも、僕はひとりではないから」 ハックは、オリバーを見つめました。ついで、シエラも。 二人は、優しい笑顔で頷きます。 白い箱の中からは、エレナの柔らかな、光。 優しい、優しい空間でした。 オリバーと、シエラと、エレナ。三人の、優しい想いが伝わってきました。 もう、ためらうことはないのだと。 叶えられなかった願いを、手にすることが出来るのだと。 ゆっくり、ゆっくりと、喜びが全身に染み渡っていきます。 微笑んで、オリバーは白い箱を妖精に手渡します。 「……どうも、有難う」 箱を受け取った妖精の表情を、オリバーとシエラの二人は、しっかりと心に焼き付けました。決して、忘れることのないように。 それは、娘と一緒にいたときでさえ、滅多に見せたことのない、混じりけのない本当の笑顔でした。 ***** ***** ***** ***** ***** ***** 太陽が、少しずつ昇っています。 ひんやりと冷たかった空気が、少しずつ暖められていました。 「……さて」 『楽園』へ旅立った妖精を、ずっと見送っていた二人ですが、仕立て職人は区切りをつけるように、ひとつ伸びをしました。 「これで、この家には僕だけになってしまったけれど、君はまだここで働いてくれるのかな?」 身体は前に向けたまま、視線だけで隣に立つ家政婦に問いかけます。 家政婦はびっくりして仕立て職人に向き直りました。 「何をおっしゃるんです、あたりまえじゃないですか」 「また、他の妖精が遊びにくるかもしれないけれど?」 「……望むところです!……それに」 ひとつ、息を吸って、シエラは悪戯っぽく微笑みました。 「旦那様って、案外抜けているところがあるんですもの。放っておいたら大変ですわ」 「おやおや。シエラに言われるようになるとはね」 オリバーが大袈裟に肩をすくめた仕種がおかしくて、思わずシエラは吹き出してしまいました。オリバーも一緒になって笑います。 しばらくの間、森の家の前では、二人の笑い声が響いていました。 「さあ、それじゃあ、今日も仕事を片付けてしまうとするか」 「そうですね。お天気も良さそうだし、今日は布団を干しますね」 「布団を干したのを忘れて、水やりをしてしまわないよう、頼むよ」 「ま、まだ覚えてらっしゃったんですか…?」 仲良く語らいながら、二人は森の中の小さな家に戻っていきます。 これからの毎日を、しっかりと前向きに生きていくために。 街から、ほんの少し離れた森の中。 澄んだ空気や、綺麗な水に恵まれた、森の中に、小さな一軒の家がありました。 小さな家の住人は二人。 その住人を守るように、温かな金色の光が、小さな家をそっと包み込んでいました。 いつまでも、いつまでも、柔らかく包み込んでいました。 <fin> 2007.1.11 |
<あとがき>