仕立て職人が仕上がった服を抱えて街に出かけ、家政婦が洗濯物の山を抱えて川に出かけました。

妖精は森の梢に寄りかかって陽の光を浴びています。

穏やかな陽射しがポカポカとあたりを包み込む午後。

ベッドに横になっていた娘は、こっそりと起き上がりました。






  
  森の中の小さな家で 2







ベッドからむくりと起き上がると、エレナは家人がみんな留守にしているかを確認するように、部屋の戸を開けて広くはない家の中を眺め渡しました。
ゆっくり休んでいなければならない身体でありながら、皆に黙ってこっそりと動き回ることには罪悪感を感じますが…。

けれど、先延ばしにしてしまうわけにはいきませんでした。
それは本当に少しずつ、少しずつでしたが。
それでも、止まることなく準備を進めなければ、間に合わなくなってしまいます。

エレナは、自分に残された時間があまり長くないということを、知っていました。


「うん。みんな、いない」


自分に確認するように、小さく呟くと、エレナはその細い腕をベッドの下の白い箱に伸ばしました。
エレナの手は、その真っ白な箱にも負けないくらいに白く、か細く、今にも消えてしまいそうに儚い様子をしていました。
それでも、しっかりとその両手で箱を抱えると、オリバーの仕事部屋に向かいます。



森の中の小さな家では、いつもカタカタというミシンの音が響いていました。

仕立て職人がいるときにはもちろん仕立て職人が。
そして、彼が留守にしているときには、彼の娘が縫い物の練習に励むのでした。

森の動物達にも、妖精にも、それは周知のことでしたが、彼女が本当は何を作っているのかは、誰も知りませんでした。

エレナは、白い箱のふたを開けると、きれいな森の緑色をした布地を取り出しました。
箱の中にはすでに出来上がった同じ色のズボンと白いシャツの一揃いがきっちりと畳んであります。

オリバーの仕事を眺め、仕立ての方法を少しずつ教えてもらっているとはいえ、エレナはまだまだ14歳の女の子です。
ていねいに進めたつもりの針もいつの間にかジグザグとした曲線を描き、シャツのところどころにしわが寄っています。
パリッと仕上げるつもりだったシャツは少々クタッとしてしまい、ズボンもところどころ縫い目が飛んだり、糸が飛び出したりしています。
それでも、少しずつ少しずつ、身体が動かせるときに、こっそりと作ってきたその一揃いには、輝くような優しさがありました。

少しの間、箱の中に畳まれた一揃いを見つめ、その後エレナは、手に持った緑色の布を広げました。
すでに裁断と仮縫いを済ませ、半ばまで縫い上げてあるそれは、少々いびつな感はあるものの、立派にチョッキの形をしていました。

「今日は、これを仕上げてしまわなくっちゃ」

自分を力づけるようにひとりごちると、ミシンの足踏み台に足を乗せ、ゆっくりと針を運び始めます。



カタカタカタカタ……



聞き慣れた、心地の良い音が部屋の中を満たしていきます。



カタカタカタカタ……



同じ音を聴きながら、ずっと昔にオリバーと交わした会話を、エレナは思い出していました。










     *****     *****     *****     *****     *****









オリバーはいつものように、がっしりとした木でできた古い仕事机に向かい、カタカタとミシンの針を運んでいました。

幼いエレナはというと、そんな父親にミルクを入れてあげようと、牛乳瓶を一生懸命に持ち上げて、オリバー用のマグカップに白い液体を注いでいました。
エレナはこの頃、ようやく自分でミルクを注ぐことが出来るようになったのです。
それはとても嬉しいことで、誇らしいことでした。
その頃から、エレナはハックにお礼のミルクを運ぶ役目を買って出ていたのです。

背伸びをして、オリバーの仕事机にカタン、とマグカップを置いてあげると、気がついたオリバーは針を止めて微笑みました。

「やあ、有難う、エレナ」

少し疲れたのでしょう。オリバーは肩を上下させると、嬉しそうにマグカップに注がれたミルクを口に運びました。

そんな父親を満足そうに見守りながら、エレナはその隣の椅子によじ登ります。
そして、ずっと気になっていたことを聞いてみることにしました。

「ねえ、パパ?」
「うん?なんだい?」
「あのね、どうしてパパにするみたいに、ハックには『どうぞ』ってしちゃいけないの?」

それは、エレナがもっと小さいときからオリバーに繰り返し注意されていることでした。


――ハックに物をあげてはいけないよ。お礼をあげてはいけないよ。――


だから、エレナはハックにお花で作った冠をもらったときも、パン粥を作ってもらったときも何のお礼も返せていないのです。
ただ、精一杯に心を込めて「ありがとう」と言うだけでした。
ハックにミルクを運ぶ役目も、家の裏手の井戸の近くにオリバーが作った台の上に乗せてくる、というだけで、エレナはハックがミルクを飲んでいるところは見たことがないのです。


「そうだなあ…。エレナは、ハックのことが好きかい?」
「うんっ!」

困ったように笑ったあと、おもむろにオリバーはエレナに聞きました。
エレナは、薄茶色の細い髪の毛を勢いよく振って返事をします。

エレナは、ハックのことが大好きでした。

いつもぶっきらぼうな喋り方で、大好きなパパのことも呼び捨てだし、どこか尊大で怖い、と思っていたこともあります。

けれど、ハックは「外の空気を吸ったら元気になる」とエレナを森に連れ出して、花の冠を作ってくれました。
綺麗な水をすくって、飲ませてくれました。
一緒に日向ぼっこをしてくれました。
オリバーが留守にしているときに発作を起こして苦しんでいるエレナのそばで、ずっと手を握りながら励ましてくれたのもハックでした。
そんなときのハックは、とても優しい目をしているのです。

「エレナは、ハックのことが大好きだよ!」

そうか、とオリバーは嬉しそうにエレナの頭を撫でます。
大きくて温かいてのひらの感触に、エレナはくすぐったそうに笑いました。


「ハックに物をあげるとね、エレナ。ハックはいなくなってしまうんだ」


いなくなってしまうんだ。

オリバーの言葉の意味を捉えかねて、きょとんと首をかしげるエレナの髪をもう一度撫でながら、オリバーは続けます。

「ハックがブラウニーという妖精だという話は、もう、したよね。ブラウニーに物をあげるということは、『役目が終わった』という印になるのだそうだよ」
「『役目が終わった』…?」
「そう。特に着る物を贈ると、それはもっと確実な印になるのだそうだ」

しるし…、と、口の中で繰り返す娘をじっと見つめて、オリバーは頷きました。

「印をもらったブラウニーはね、地上での役目を終えて、僕たちの前から、いなくなってしまうんだよ」


ミルクを渡したり、洋服を渡すと、ハックはいなくなってしまうという話でした。
エレナは、そんなのは嫌だと思いました。
ハックがいなくなってしまうだなんて。
ハックはエレナにとっても、オリバーにとっても、大切な大切な家族だったのです。

けれど、ひとつ、気になることがありました。
『役目が終わった』
それでは、ハックが今自分たちと一緒にいてくれることは、ハックのお役目だからなのでしょうか。


「ねえ、パパ?」
「なんだい?」
「あのね、いなくなってしまったら……。そうしたら、ハックは一体、どこに行くの…?」

エレナの質問を受けて、オリバーは目を見開き、そして、遠くを見るようにまた目を細めました。

「……うん。……ママがいる、ところだよ……」



ママは、『楽園』にいるのでした。
四季を問わずに綺麗な花が咲き乱れ、空気は青く澄んで、清らかな水が流れて。
小鳥たちが可愛らしい声でさえずり、そして、綺麗な服を着た、綺麗な人たちがいつも仲良く笑顔で暮らしているところ。
綺麗で、優しくて、苦しみも悲しみもないところ。


『楽園』に行ったママに、もう二度と会えない、とは、オリバーは言いませんでした。
けれど、『楽園』は、行くことはできても、帰ってくることはできない場所なのです。
『楽園』に行ってしまった人は、もう、戻ってくることはできないのです。



「ハックも……『楽園』に、行くの…?」










     *****     *****     *****     *****     *****







カタカタカタカタ……

森の中に、ミシンの音が響きます。

ポカポカとあたたかだった陽射しはいつしか傾いて、柔らかいオレンジ色の光を窓から運んできていました。

そろそろオリバーは街を出た頃かもしれません。
そういえば、今日オリバーが洋服を届ける先は、牛乳屋さんだと言っていました。

(お礼にパパ、バケツいっぱいの新鮮な牛乳をもらってくるかもしれないな……)

新鮮な牛乳の上澄みの、上等のクリームをすくって、ハックにあげることを考えると、エレナは胸が躍りました。
生まれたときから病弱で、人にいろいろなことをしてもらうばかりだったエレナにとっては、誰かのために何かをするということが、一番の喜びだったのです。

楽しいことを考えると、ミシンの音も軽くなった気がします。

カタカタカタカタ……


「……できた…っ!」


最後の一列を縫い上げ、エレナは足踏み台から足を離しました。
嬉しそうに緑色のチョッキを広げてみます。
シャツを作ったときから時間がたっているためか、シャツほどには針のジグザグも目立たず、ひきつれもあまりありません。

あとは仮縫い用の仕付け糸を解いてしまえば完成です。

シャツとズボンとチョッキを並べてみたエレナは、その一揃いをじっと見つめ、首を傾げました。

(そうだ。首にリボンを結ぶようにしたら、もっと素敵かもしれないわ)

思い描いたイメージに満足して、エレナはにっこりと微笑みます。

(色は…赤がいいわ。それも、深くて鮮やかな……楓の葉っぱのような色…)

それは大変ぴったりとこの服に当てはまるように思えました。
今度シエラが街に買出しに出るときに、一緒に買ってきてもらうよう、頼んでおこう。
心の中にこっそりメモを取りながら、そういえば…、とエレナは考えます。

洗濯に行ったシエラは、一体どうしてしまったのでしょう。
そろそろ夕飯の支度に戻ってきても良い頃ですが……。

首を傾げたちょうどそのとき、玄関の扉がバタンと開き、言い争う声が聴こえてきました。


「まったくお前はどこまでへタレなんだよ!エレナの上着を流してしまうやつがあるか」
「私は拾ってくれだなんて頼んでませんっ!横から来て余計な口出ししないでくれます?」
「馬鹿使用人!お前の服だったら誰が拾うかっ。エレナの服がなくなっちまったらどうするんだよ!」
「私は自分で拾えました!あんたが横から邪魔するから旦那様の服までやり直しですよ、もう!」


どうやら、シエラが洗濯物を流してしまって、二人でそれを拾いに川に入ったらしいのです。
エレナは慌てて緑色の一揃いを箱に戻すと、机の奥に箱を押し込み、どうやら濡れてしまったらしい二人の身体を拭くため、タオルを持って立ち上がりました。


「ハック、シエラ、お帰……」


玄関に出ようとしたところで、急に酷い咳が出てきて、動けなくなってしまいます。
タオルを抱いて咳き込んでいるエレナにシエラが気づき、慌てて駆け寄ろうとするのを押しのけて、顔色を変えたハックが矢のように飛び出しました。

「エレナ……馬鹿っ!こんな薄着でうろうろするやつがあるか!」

咳の合間に大丈夫、と伝えようとするのですが、あまりうまくはいきませんでした。

「使用人っ!ぼさっとしてるんじゃねえよ、毛布持って来い!」

ハックに怒鳴られたシエラは、慌てて毛布を抱えてきます。
肩に毛布をかけてもらったエレナは、二人がかりで椅子に座らせてもらって、その後ハックが持ってきてくれた水を飲んで、ようやく落ち着きました。
あんまり酷く咳が出たもので、息が苦しくて心臓がドキドキといっていますが、これもいつものことでした。
早鐘を打つ胸をなだめながら、エレナはハックとシエラを振り返ります。

「…もう、大丈夫。どうも有り難う…」

そうして、抱きしめていたタオルを二人に差し出すと、にっこりと陽だまりのように微笑みました。

「はい。あなたたちも、身体を拭いた方がいいわ」













お別れのときは、すぐそこまで迫ってきていました。

















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2005.11.12