夕陽が西の木々の間に隠れながらオレンジ色の光を散らす頃、仕立て職人は帰ってきました。
重たそうなブリキのバケツを抱えた仕立て職人は、その中身を披露して、娘をたいそう喜ばせました。

娘の望んでいたとおり、バケツの中にはいっぱいに新鮮なミルクが入っていました。





   森の中の小さな家で 3





今日も一日の仕事が終わりました。
薪を割って暖炉にくべたハックは、息をついて小屋の裏手の井戸端に向かいます。
今夜は一段と冷えが厳しいようです。
身体の調子の悪そうな娘のために、部屋をいつもより暖かくしておく必要があると思ったので、薪の量はいつもより多めにしておきました。
井戸端に向かうのがいつもより少しばかり遅くなったのは、そのためでした。


そのほんのわずかな遅れを後悔することになるとは思いもよらずに。


井戸端にたどり着いたハックは、いつも台の上に乗っているはずのマグカップが見当たらないことに首を傾げました。
ハックが使うマグカップは、何年も前にオリバーが街で買い求めてきたもので、素朴ながら質感の良い、感じの良い素焼きのものでした。
ミルクの匂いはするのに……、と、あたりを見渡したところで、ハックは顔色を変えました。
妖精は、人間よりほんの少しだけ夜目が利くのです。

「エレナ…エレナ!!」

すぐに気づかなかった自分を呪いながら、ハックは大慌てで暗闇の中、裏口に倒れているエレナに駆け寄りました。
素焼きのカップは割れて散らばり、上等なクリームはとうに土に染み込んでしまっています。
そんなことには構いもせずに、ハックはエレナを抱き起こしました。

夜風に晒されて、その頬はすっかり色を失って冷たくなっています。
聴こえてくる胸の鼓動も、とてもとても弱々しいものになっていました。
呼んでも叫んでも、叩いても意識を取り戻さない娘に、妖精は度を失いかけましたが、ぐっと唇をかんで娘を背負うと、裏口の扉を蹴破るようにして開けました。

「オリバー!オリバー!!」

ハックの叫びに気づき、何事かと駆けてつけた仕立て職人と家政婦は、ハックの背の上の娘に気づくと、揃って顔色を変えました。





シエラが走り、すぐに医者が呼ばれましたが、白い髭をしたその老医師は、ただただ首を振るばかりでした。

もとよりエレナの病は医者の手に負えるものではないのです。
父親も娘も、それはとうに承知していることでした。
治る見込みのないまま白い壁に囲まれて暮らすことよりは、と、美しい森の中での生活を楽しんでいたのです。

心臓の負担が重くなったのだろう、と、老医師は言いました。

エレナの身体は、十四歳の女の子にしてはとても小柄でしたが、それでも彼女の小さな心臓が支えるには大きくなりすぎていました。

エレナの小さな心臓には、大きくなった身体を支えるだけの力は残されていないのです。





部屋の隅で、ひっそりとハックはこの様子を見ていました。
家人以外の人間を嫌うブラウニーのこと、来訪者に対しては悪戯ばかり働いているハックでしたが、医者にだけは一目置いていたのです。
エレナを救うことが出来るとしたら、それは医者を置いて他にいなかったので。


それでも、このときばかりは飛び出していって、白髪に覆われたその頭を、思いっきり殴りたい思いに駆られていました。
これだけ苦しんでいるエレナを救うこともできず、何が医者だと。

医者の話を聞いている、オリバーやシエラのことも罵倒したい思いでした。
何故、体調の悪いエレナが裏口に出ようとするのを止めなかったのかと。

けれども、何よりも、誰よりも憎らしいのは自分自身でした。
エレナは、他でもない、ハックのために小屋を出たのです。
辛い身体を引き摺って、それでもなんとかハックにお礼を渡そうとしていたのでしょう。
無情な発作に襲われたエレナを、何故もっと早くに助けてやれなかったのかと。
何故、無理をしないよう、もっと強く言いつけておかなかったのかと。


後悔ばかりが心を占めて、気が違ってしまいそうでした。
それでも、エレナの苦しみはこの比ではないのです。


ハックは、エレナとエレナを囲む家人を、苦しそうに見つめることしかできませんでした。







翌日になっても、エレナの容態は変わりませんでした。

紙のように真っ白な顔をしたエレナは、部屋に運び込まれてから一度も意識を戻していません。
ただ、時折うわごとのように何かを呟くだけです。

苦しそうに眉根を寄せた顔は、意識があるときならば、決してエレナが見せないような表情です。
唇から漏れる呼吸の音はとても弱々しく、そしてまた、聴こえてくる心臓の音もとてもか細いものでした。

妖精は少しだけ人間よりも耳が良いのです。

少女の心臓の音は、他の人よりもずっとずっとか細いものでした。
それは幼い頃からとてもか細かったのですが、年を重ねるにつれてその音が更に儚くなっていくことはよくわかっていました。

それでも、今ほどその音が小さく、弱々しくなっていたことはありません。

苦しんでいるエレナを見ていられなくて、ハックは唇をかんでうつむきました。
そのときです。


「シエラ…シエラ……」

眉根を寄せ、瞳を固く閉じたまま、エレナが弱々しく呟きました。

「はいっ!お嬢さん!!」

エレナの額に絞った布を乗せていたシエラは、慌ててエレナの顔をのぞきこみます。
握った手には全く力が感じられず、シエラが顔を寄せてもエレナは気づきません。
ただ、うわごとのように、苦しい息の元、繰り返すのでした。

「シエラ……お願い…… 赤いリボンを…」

リボンを買ってきて、と。

「お嬢さん…?」

エレナが誰かにものを頼むのはとても珍しいことでした。
無意識のうちに呟かれる言葉は、その意味はわかりませんでしたが、とても捨て置くことはできません。
その望みは、とても大切なものに思えました。

わかりました、とシエラが身を翻そうとしたとき。

「俺が行く」

ひっそりと部屋の隅に立ち尽くしていたハックが、ひと言短く言うと、そのまま扉を開けて飛び出しました。









娘のために出来ることの何一つない部屋で、苦しむ娘を見守っていることは大変な苦痛だったので。

余計なことは一切頭から取り払い、妖精は、ひたすら街へと急ぎました。












ただ、娘の望みのみを思い描きながら……。
















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2006.1.22