一夜ごとに空気が冷たくなってきているようです。 森の中は、澄んだ空気に閉ざされ、一段と冷え込んでいました。 舞い落ちる葉が、秋の終わりを告げています。 土にうっすらと降りる霜が、冬の訪れを告げています。 凛と澄んだ空気は、こんな時でなければ、清々しく気持ちの良いものだったかもしれません。 森の中の小さな家で 4 太陽が昇って、まださほど時間はたっていません。 空の色は青よりは灰に近く、葉を落とした木々は寒々しく白茶けて見えました。 くすんだ色彩の中を、同じようにくすんだ衣に身を包んだ妖精が走り抜けていきます。 人間であるシエラが走るより、ハックのほうがよほど早く街に着くことができます。 それに、ハックにはエレナが求める赤の色が何となくわかっていました。 それより何より、ハックは何もできないままエレナのそばについていることが辛かったのです。 エレナのために何かがしたかったのかもしれません。 ただ、苦しんでいるエレナのそばから、逃げ出したかったのかもしれません。 何もかも、わからないまま妖精は走りました。 足を運ぶたびに剥き出しになる膝は赤い色に染まり、吐く息は白く染まります。 それでもハックは赤くなった指先に、息を吹きかけることもしません。 キンと冷えた空気も、何も感じていないかのように、ひたすらに走り続けました。 走って走って、気がついた頃にはすっかり森を抜け、落ち着いた森の色とは異なる、様々な色が華やかに溶け合った街の入り口にたどり着いていました。 妖精は、街に出ることは滅多にありませんでした。 ともに暮らす家人以外の人間を極端に嫌っていたからです。 それでも、このときは街の人間の気配に、嫌悪感すら感じることはありませんでした。 ひたすらに、布屋を目指して走ります。 ハック自身は布屋に赴いたことはありませんでしたが、仕立て職人や家政婦が残した道を辿ることができたのです。 パン屋がありました。果物屋がありました。小物屋がありました。 朝早いこともあり、まだ客足はまばらでしたが、どの店も看板を上げ、明るい声で朝の挨拶が交わされていました。 寒そうに手をこすりながら街道を歩く婦人が、小汚い格好をして、思い詰めた顔をした少年がすぐ脇を走り抜けるのを見て、ぎょっとして身をのけ反らせましたが、そんなことには構いもせずに、ハックはオリバーやシエラの気配を辿ることだけに専心します。 両脇に並ぶ店みせには目もくれず、レンガ造りの街道をひた走るハックは、ついに目指す店にたどり着くことができました。 切り取られたショーウィンドウは、通り過ぎてきた今までの店に比べると小さなものでしたが、それでもその内側には華やかな色彩が溢れているのが見て取れます。 ここが布屋に、間違いありませんでした。 木製のドアを勢いよく開けると、ドアの上に飾られた銅製の看板から下がった呼び鈴が、チリンチリン、と音を立てます。 銅製の看板には、ウサギがミシンをかけている絵が掘り込まれていました。 そのウサギはどこかしらオリバーに似ているように見える、穏やかな目をしていました。 「いらっしゃいませ〜」 正面のカウンターに腰掛けた、太ったおばさんが愛想よく声をかけるのにも構わず、ハックはリボンの棚を探しました。 どうやらハックが一番最初のお客さんだったようで、店の中はがらんとしています。 愛想無い、小汚い子どもに、布屋さんは不審そうに眉根を寄せましたが、ハックを咎めることはしませんでした。 布屋さんの視線になど気づくはずもなく、必死に店内を見渡していたハックは、リボンの棚を見つけると、飛びつくようにその色を見比べ始めました。 こぢんまりとした店構えの割りに、品揃えはなかなかたいしたもので、布もリボンも、色彩も柄も豊かに揃えられていました。 夏の空のように明るい青。陽に照らされた若芽のような柔らかい緑。こんがりした卵のような黄色や雪のような白。 赤も、燃え立つ炎のような色から淡い花弁のような色まで様々です。 その中で、ハックが手にしたのは秋の夕暮れのような、少しオレンジがかった赤をしたリボンでした。 おそらく、これがエレナの求める色なのです。 リボンの束を握り締め、ハックはカウンターに踵を返します。 「おばさんっ!これちょうだい!」 勢い込んだ少年に、やや目を丸くしながら、布屋さんはそれでも商売用の笑顔を浮かべて言いました。 「はい、リボン一束で銅貨二枚だよ」 ブラウニーは、労働の対価にミルクやクリームをもらいます。 人間は、労働の対価に何を使うのだったか……。 そう、オリバーから聞いて、知っているはずでした。 リボンを「買う」ということが、どういうことか……。 慌ててポケットというポケットを叩きますが、コインが出てくるはずもありません。 真っ青な顔をしながら、ハックは初めて布屋のおばさんを正面から見つめました。 「悪い…。おれ、金忘れちまった……」 小汚い少年を不審に思いながらも、柔和な笑みを浮かべていた布屋さんは、途端に商売用の笑みを脱ぎ捨てました。 振り払うような冷たい目をしてハックに言い放ちます。 「だったら用は無いはずだね。お金を持って出直しておいで」 「……っ!それじゃ間に合わないんだよ…っ!」 「なんと言ったって、無銭で渡すわけにはいかないよ。こっちも商売だからね」 「頼む!あとで必ず持ってくるから…!!」 「嘘言うんじゃないよ!もともと銭なんか持っちゃいないくせに!」 必死に食い下がるハックに、布屋さんはとうとう怒ってしまいました。 「大体、最初から怪しいと思ってたんだ。乞食みたいな格好して!あんたにゃリボンなんか必要ないだろうよ。お返し!」 布屋さんが手からリボンをもぎ取ろうとするのを、必死で握って抵坑しながら、ハックは訴えました。 「おれのじゃないんだよ!頼む!エレナの最初の願いなんだよ…!」 いつも自分のことを後回しにして、他人のために微笑むエレナの、最初の願いでした。 初めて、彼女が欲しいと口にしたものでした。 そして、それが最後の願いになるかもしれない―――。 あまりにも不吉で、あまりにも切実なその予感に、妖精は拳を握り締めてうなだれます。 「金は必ず持ってくる…!おれじゃ信用できないんだったら、オリバーかシエラが来るから…!」 「……オリバー?」 仕立て屋の名前を聞いて、布屋さんの表情が一変しました。 顔いっぱいに広がっていた不信感が、瞬く間にぬぐわれ、合点がいったように両手を打ち鳴らしました。 「じゃあ、あんた、オリバーさんのところのブラウニーってやつかい!?話はよく聞いているよ!」 眉を開いて、先ほどとはうって変わって、親しげにハックを覗き込む布屋さんに、驚いて身を引きながらも、ひとつの光を見出してハックは急き込みます。 「ああ、そのブラウニーってやつだ。頼むよ!後で必ず金は持ってくるから…!」 「ああ、いいよいいよ。オリバーさんには近々コートを仕立ててもらおうと思っていたんだ。だったら早く言えばいいのにさぁ…」 オリバーの名前を聞いた途端にここまで態度が軟化するのです。 オリバーがどれほど街で信頼されているかがわかるというものです。 けれども、ハックは主が他人に認められている、という事実にすら気づきませんでした。 今、妖精の心の中にいるのは、彼が何よりも大切に思う少女だけでしたから……。 「おばさん、有難うっ!」 言うが早いか、ハックは身を翻し、ドアを蹴飛ばして街道に走り出ました。 家人にもめったに言わない、お礼の言葉を口にしたことすら気づいていません。 走って走って、走り続けました。 街道沿いの店が、溶け合ってどんどん流れていきます。 華やかな色合いが、くすんだ灰茶に変わると、更に妖精の足には力が入りました。 手には、少女の望むリボンが、大切そうに握り締められています。 木の根が隆起した、ごつごつした土に足を取られることもなく、文字通り飛ぶように妖精は走りました。 走って走って、走り続けました。 ようやく、小さな丸太小屋が見えてきた時には、太陽もずいぶん高いところまで昇っていました。 「エレナっ!リボンあったぞ!!」 妖精は、叫びながらドアを開け……… ………そのまま、凍りつきました。 何もかもが、止ってしまったような、静謐な空間。 静まり返った部屋の中では、妖精が取り落としたリボンが立てる、軽い「パサリ」という音すらはっきりと耳に届きました。 静かに座り込み、祈りを捧げるように娘を見つめる父親。 目頭にハンカチを当てる家政婦。 そして、二人に囲まれて静かに眠る娘は、ただ眠っているのとなんら変わりは無いような穏やかな表情をしていました。 それでも、妖精が気づかないはずはありません。 ハックが家を出るまでは、確かに聴こえていた、儚い命の音が、ふつりと聴こえなくなってしまっていることを。 何よりも、どんなに命の音が儚くなっても、決して力を失うことの無かった、溢れんばかりの心の輝きが、見えなくなってしまっていることを……。 「………エレナ………?」 ハックは、間に合わなかったのでした。
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