森は、冬の真ん中に閉じ込められて、静かに佇んでいました。
白く、雪の積もった木の枝の上で、氷を含んでいるかのような冷たい風に羽毛を逆立たせながら、小鳥が二羽、不安そうに寄り添っています。
根っこの方では、白い野ウサギがやはり不安そうに、鼻をピクピクと動かしています。
森の中の小さな家から、出し抜けに怒鳴り声が聞こえることには、動物達は慣れっこでした。
時には逆上した家政婦や妖精が、鍋やバケツなどを放り投げることすらありましたが、それすら何事も無いようにかわすのが、この森の動物達でした。
風の中に冬が混じり始めた頃から、小さな家からは、物音は一切途絶えました。
年中響いていた、ミシンのカタカタという音さえ、ぷつりと聴こえなくなってしまいました。
森の動物達は、静かな冬の中で、不安そうに身を寄せ合っていました。
森の中の小さな家で 5
サク、サク。
ふくらはぎの辺りまで積もった雪を慎重に踏みながら、寒そうにコートの襟を寄せた家政婦が、森の中の家に向かって歩いていました。
背中に背負った袋の中には、街で買出しをしてきた粉や芋、チーズなど、日持ちのする食べ物が入っています。
ずっしりと重い袋を背負い、白い息を吐きながら、家政婦は家路を急ぎます。
あるだけのお金を使って、食糧を買ってきました。
かなりの量が袋の中には入っていますが、これだけでこの冬が越せるかどうかは、心もとないものがありました。
しっかりと計画を立てて日々の糧を取らなくては。眉根を寄せて、家政婦は考えていました。
視界の中に見慣れた家を認めると、思わず早足になりそうな自分をなだめ、努めてゆっくりゆっくり、慎重に進みます。
粗忽者の彼女は、何もないところでもよく転ぶのです。
積もった雪に足を取られて、大事な食糧を水浸しにしてしまうことだけは避けなければなりませんでした。
「ただいま、戻りましたぁ」
ようやく扉に手をかけると、ほっと溜息が漏れました。
森の中に一軒だけある、小さな家。質素で、華やかなものはどこにもありませんでしたが、優しさに溢れた、ぬくもりのある家でした。
オレンジ色の、温かな光が似合う、柔らかな家でした。
本当に、つい最近。冬が訪れ始めた、その頃までは。
まだ、森が白い色彩を持たなかった頃。
乾いた灰茶に閉ざされていた、秋の終わりと冬の始まりの、その真ん中の頃。
森の中の小さな家の住人は、大切な大切な、かけがえの無い家族を失いました。
おとなしく、穏やかな娘。
いつも柔らかな笑みを浮かべ、住人の心に優しい光を灯してくれていた、小さな娘。
幼いながらに美しい心を持った娘は、その清らかさの代償だといわんばかりに、弱く、脆い心臓を与えられていました。
秋の終わりと冬の始まりの、その真ん中の頃。
ついに、娘の小さな心臓は、その動きを止めました。
同時に、住人達の時間も、止まってしまいました。
妻の分まで娘を温かく慈しんでいた父親は、その日を境に全ての仕事を断り、ひっそりと部屋にこもるようになりました。
娘を誰よりも大切に想っていた妖精は、住人と言葉を交わすことも無くなり、影のように黙々と、ただただ仕事をこなすのでした。
誰よりも最初に、日常を取り戻したのはシエラでした。
もちろん、シエラの哀しみも、とても深いものでした。
エレナは、シエラのことを、実の姉のように慕ってくれていたのです。
そしてまた、シエラもエレナのことが、妹のように可愛くて可愛くて、仕方ありませんでした。
エレナの柔らかな笑顔を思い出すたび、それはもう、二度と見ることができないものだ、という絶望に打たれ、心の中が荒れ狂いました。
心に空いた大きな穴がいつまでも埋まらず、何日も何日も泣きました。
誰よりもたくさん泣いたのはシエラで、それ故、シエラが一番最初に苦しみから顔をあげることが出来たのかもしれません。
淋しさは少しも埋まりませんでしたが、たくさん流した涙が、少しずつ苦しさを洗い流してくれていました。
そうして気がついてみると、大切な住人達は、生きる気力を根こそぎ失くしているのです。
常に楽しそうな音を鳴らしていたミシンは、あっという間に色褪せ、存在を忘れられました。
いつもミシンと共にあった仕立屋は、ミシンを顧みることも無く、まるで生きることを拒否しているように見えました。
あれほどいつもシエラを目の敵にしていた妖精は、シエラが何を失敗しても何一つ文句を言うことはなくなりました。
一切の文句も会話も、視線を合わせることさえやめ、そこに人間がいることすら忘れてしまっているようでした。
ただただ、そこにあるのは「ブラウニー」の性だけで、ハックという妖精はいなくなってしまったかのようでした。
(私がしっかりしなくては……)
シエラまでもが哀しみに沈んだままでいたら、この一家はこの冬を越せなかったかもしれません。
黒々とした森に、ぽっかりと雪の白が浮かび上がって見える夜半。
皓々と光る白い月と、森を包み込んだ白い雪が、冷え冷えとした空気の中、呼び合うように美しく、ぽうと輝いています。
美しくも寒々しい景色を窓の外に、暖炉の火を落とし、シンと冷えた部屋の中には、密やかに小さなランプの明かりが灯っていました。
部屋は仕立て職人の部屋。
がっしりとした木の仕事机の上に据えられた仕事道具は、ここ最近職人にかえりみられることも無く、ひっそりと埃を被っていましたが、小さな明かりはその机の上に置かれていました。
仕立て職人がひたと見つめているのは、仕事道具ではなく、一枚の写真。
柔らかな茶色に彩られた写真には、若き日の仕立て職人とその妻、そして、幼い娘が映っていました。
「セイラ……」
無意識にオリバーは奥さんの名前を呟いていました。
エレナは、愛しい娘は、無事に君のところへ行けただろうか。
苦しみから解放されて、幸せにしているだろうか。
きっと、迷わず楽園に行けたに違いありません。
葬送の日、牧師様も行っていました。
エレナのように清らかな娘なら、迷うことなく楽園に行くことができるだろうと。
仕立て職人の一家は、街の人々と、それほど深い付き合いを持ちませんでした。
病がちの娘の身体が、頻繁に街に出ることを許さなかったからです。
それでも、仕立て職人の、娘の人柄は、仕事を依頼しに来る街の人々にとって、とても慕わしいものであったようで、葬送には、多くの街人が参列してくれました。
目頭を押さえた布屋の奥さんが言いました。
あんなに朗らかで優しい娘だったのに、どうして。
ハンカチで鼻をかみながら、パン屋さんが言いました。
ああいう、得難い子どもは、神様が欲しがるのかねえ。
涙の中で、密やかに交わされた言葉は、殆ど意味を成さないまま、オリバーの耳元を通り抜けていきました。
神様が、欲しがったため、か。
写真を撫でるオリバーの瞳は、いつまで経ってもうつろでした。
ジジ、と、ランプの炎が頼りなく揺れています。
しんと静まり返った夜の中、聴こえるのは炎のたてる、かすかな音だけでした。
だから、突然静寂を破る、がらがらという音が聞こえた時には驚きました。
思わず腰を浮かせたオリバーは、続いて更に何かがバラバラと散らばる音、そしてそれを必死に追うような足音を聴きました。
「やっちゃった……」
小さくランプの火を灯し、こそこそと作業をしていた家政婦は、散らばった飾りの数々を出来るだけ静かに集めようとしましたが、もとががさつな上に、物が物なだけに、どうしても音が出るのは止められませんでした。
キラキラと涼やかな音を立てながら転がっていく大きな鈴や、小さめな鐘。
ややいびつな形をしたそれらは、床に当たってゴツンと音を立てると、そのままチリチリと転がってしまいます。
焦って飾りを集めようとするシエラの背中に、仕立て職人の声がかかったのはその時でした。
「シエラ…?何をしているんだい?」
慌てて振り返れば、ランプをかざした仕立て職人が、不審げに部屋の惨状を見ています。
「だだ、旦那様……っ。さ、騒がしてしまってすみません!」
「構わないよ。それよりも、これは一体……?」
オリバーは、そう言って部屋に足を入れようとし、その足元に転がった大きめな鈴を拾い上げました。
元が鉛の色をしていた鈴は、綺麗な青色で塗られていましたが、床に当たった部分が剥げてみすぼらしい様子をしています。
どうやら顔料がまだ乾ききっていなかったようで、鈴を持ったオリバーの指にも青い色が移りました。
「わわ!すみません、旦那様!!手が汚れてしまいますから!!私がやりますから!!」
改めて見渡せば、あちこちに転がるのは様々な色をした鈴や鐘、星の形をした飾りやリボン。
シエラの座るあたりには、小さなランプと顔料と筆。
そして、床の上には、転々と様々な色の顔料がこびりついているようです。
それらを隠そうとするかのように、集めて袋に放り込もうとするシエラを、慌ててオリバーが止めます。
「まだ駄目だろう、一緒にしたらまた色が移ってしまうよ」
それにしても、一体これはどうしたことでしょう。
ぬくもりの消えたこの家に、とりどりの色をした飾りは、いかにも場違いに見えました。
夜遅く、暖炉も燃やさず、寒い部屋の中で、家政婦はこれらの飾りをどうするつもりだったのか。
問うように視線を投げかければ、シエラは真っ赤になってもう一度、ごめんなさい、と呟きます。
「やっぱりお役に立てなくて……。どうして私って、こう不器用なんでしょう……」
「そんなことはないよ。けれど、これは一体どういうことだい?」
色が剥げて、いびつな姿になってしまっていたものの、それらの飾りは、間違いなく聖誕祭のためのものでしょう。
冬の中で、唯一催されるお祭。聖誕祭。
すっかり忘れていましたが、そういえばそろそろ祭の時期は迫っていました。
去年の聖誕祭は、嬉しそうに娘が部屋の飾り付けをしたのです。
質素ながら、心のこもった飾りの数々は、部屋の中を一層温かく、明るくしてくれたものでした。
リボンやレースで部屋を飾った娘の笑顔を思い出すにつけ、オリバーの胸を、突き抜けるような痛みが走ります。
あの子のいない今年、祭を行うことに、一体何の意味があるのだ………。
言葉にならない独白は、わずかにシエラを責めるように、態度に表れたのかもしれません。
慌てて家政婦は首を振りました。
「あの、あの、違うんです。これは、街の人の飾りを、私が請け負わせてもらったんですっ」
「……?一体、どうして……」
「……すみません……。私がきちんと計算できていなくて……」
どういうことかわからず、オリバーは首を傾げました。
非常に言いにくそうに、落ち着き無く視線をさまよわせていた家政婦は、やがて観念したように、ぽつぽつと語り始めました。
この間の買い物で、食糧に全てのお金を使ってしまったこと。
少しずつ、小分けにしていた食糧が、そろそろ足りなくなってきてしまうこと。
お金を稼ぐ必要があると思い、街の人に頼んで、仕事を割り当ててもらったこと。
今までは、こんなことが起こったことはありませんでした。
もちろん、シエラが悪いわけではありません。
それは、娘を失った仕立て職人が、全ての仕事を断ってしまったために起こったことに、他なりませんでした。
(わたし、パパの作る服が、一番好き!)
突然、幸せそうに笑うエレナの声が、弾けるようににオリバーの脳裏に甦りました。
(わたしも、パパみたいに洋服を作ってみたいなぁ)
(パパも、本当に洋服を作るのが、好きなのね)
「エレナに……怒られてしまうな」
懐かしい声、懐かしい笑顔。
痛みは依然として残っていましたが、それ以上に、それは慕わしく思い出されました。
ああ、エレナは、父親の仕事が本当に好きだった。
嬉しさと誇らしさに、いつも幸せそうな笑顔を浮かべていたっけ……。
「……旦那様…?」
宙を見つめてつぶやくオリバーを、シエラが訝しげに首をかしげて見上げました。
我に返ったようにまばたきをすると、オリバーは自分を見つめるふたつの瞳を見返します。
「……悪かったね、シエラ。ぼくも手伝うよ」
「いえ!!そんな!!旦那様はどうかもう、お休みになって……」
「それから、そろそろ仕事も再開しないとね」
「………!!」
目を見開くシエラを、穏やかに見据えると、オリバーは改めて頭を下げました。
「本当に……苦労をかけて、すまなかった。それから、どうも有り難う」
「そ、そんな…っ。謝っていただくことも、お礼を言っていただくことも、何もっ!まだ、何もできておりませんもの…っ」
「そんなことはないよ。でも、確かに、これはシエラ一人には荷が重そうだ」
みすぼらしい様子の飾りを示すと、悪戯っぽくオリバーが笑います。
シエラは、真っ赤になってうつむきました。
自分の不器用さを恥じ入ったためでもあり、そして、嬉しく思ったためでもありました。
シンと冷え切った夜の中、火の気の無い部屋の中は、依然として寒々しかったはずですが、確かにその時にはぬくもりが感じられました。
それは、娘を失ってから、父親が初めて浮かべた、笑顔のためだったかもしれません。
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2006.6.9
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