ばさり、と大きな音を立てて、木の枝に積もった雪が落ちました。
キラキラと結晶を作っていた雪がその形を解いて、透明な水に戻ろうとしています。
灰白で覆われていた世界に、ぽつぽつと他の色が混ざるようになってきました。
春は、もうすぐそこまで近づいていました。







       森の中の小さな家で 6







春が近づいているといっても、まだちらほらとその兆しが見えるだけで、日が暮れれば空気の冷たさは、冬のそれと大差ありませんでした。
春を待つ植物達は、気が早いものは顔を上げていましたが、まだ雪の下で力を蓄えているものがほとんどです。

それでも、妖精の少年は、赤い小さな実がついた枝や、小さく厚い花弁を持つ花をどこからか見つけてきます。


妖精は自分の身体のほかは、何も持っていませんでした。


何かを与えたい、と思っても、彼が出来ることは、大事な人のために働くことだけです。
そして、彼が一番に役立ちたいと思っていた少女のためには、もう働くことが出来なくなりました。
せめて、彼女に喜んでもらえるよう何か綺麗なものを、と思っても、彼は何も持っていないのです。


「こんなのしかなくて、ごめん……」


ぽつりと呟きながら、手にした小枝と花を、目の前のなめらかに磨かれた石の前に捧げます。

森を抜け、街の大通りを抜け、片隅にひっそりとつくられた墓所に妖精はいました。

この石の下に、大好きな少女が眠っているのです。
ここに眠っているのは、身体だけで、本当の少女はもう妖精の手の届かないところに行ってしまいました。
妖精は、なめらかな石に虚しく話しかけます。


「もっと暖かくなったらさ…、もっと綺麗な花、取ってきてやるよ。花冠だって、作ってやる」


エレナの体調が少しばかり良いときに、ハックはエレナを外に連れ出したことがありました。
身体の弱いエレナは、あまり外に出たことがなく、幼い女の子には珍しく、花冠の作り方も知りませんでした。
ハックが不器用ながら、花の編み方を教えてあげると、幼い少女はひどく喜び、こぼれるような笑顔を見せたものでした。


今、花冠と作ってあげたところで、それを受け取る少女はもういない。
それがどんなに無意味なことかは、ハックが一番よくわかっていました。
エレナは、もうここにはいない。
ハックが決して辿り着けないところに行ってしまった。


それは、どんな別れよりも決定的な「別れ」でした。


それがわかっていても、ハックには他にどうすることも出来なかったのです。

決して会えないエレナの、そのわずかな名残を求めて、夜毎妖精は墓所を訪れていました。
それは、人間が死者を悼む、という行為によく似ていましたが、それよりももっともっと、妖精の心はからっぽでした。

他の誰よりも、エレナから自分が一番隔てられてしまったということを、妖精はよく知っていたのです。
 








     *****     *****     *****     *****     *****     *****     *****









ひっそりと静まり返った森の中の小さな家では、怒鳴り声や、食器が不穏に飛び交う音は絶えて久しくなっていましたが、静かに静かに森を揺らす、カタカタという音は、春の兆しが見える少し前から聴こえ始めていました。
灰白の世界の中に沈み込むように冷たい色をしていた家の中にも、その頃から暖かい灯りの色が見えるようになっていました。

もちろん、何もかもが以前の通りとはいきません。
ひとり、いなくなるということは、とてもとても大きなことです。
その穴はどうやっても埋められるものではありません。

それでも、仕立て職人は、娘が嬉しそうにミシンの音を聴いていた頃と同じように、カタカタとミシンを鳴らすようになりました。

いつも森の中で穏やかに響いていた、カタカタというこの音を、もういない娘が、どこかで聴いているような気がするのです。
ミシンをかけていると、仕立て職人の仕事が大好きだ、と言っていた娘が、嬉しそうに見守っているような、そんな気持ちになれました。


(そうだろう、エレナ?)


心の中で、静かに語りかけながらミシンの針を進めます。
オリバーが仕立てているのは、暖かい生地を使った、子ども用の小さな上着でした。
生地が厚いので、ミシンの針は、カタ、カタ、とゆっくり進みます。

請け負った仕事が一段落したところで、仕立て職人はこの上着を作り始めたのです。
この上着は、ゆっくりと時間をかけて、いつもよりもっと丁寧に作り上げるつもりでした。

カタ、カタ、カタ……。ゆっくりゆっくり、時間は過ぎていきます。


「だんな様、ひと休みされますか?」


オリバーに家政婦が声をかけたの時には、仕立て職人が一心にミシンに向き合ってから、ずいぶん時間がたっていました。
ふと顔を上げて、すっかり暗くなっていた窓の外に気づき、オリバーは苦笑します。
熱中すると周りが見えなくなってしまうのは、いつものことでした。


「そうだね。有難う、シエラ」


息をついて、オリバーは家政婦に笑いかけました。
家政婦もまた微笑んで、テーブルの上の隙間に、カップを置きます。
カップの中には、温められたミルクが湯気を立てていました。

白い湯気をふう、と吹いて、オリバーは目を細めました。

身体の調子が良いときは、よくエレナが温めたミルクを持ってきてくれたものです。
幼い頃の娘は、自分のカップにもミルクを入れると、となりの椅子によじ登り、ニコニコと父親にお話をねだったものでした。

エレナと過ごしたひとつひとつは、まだ新しすぎて、思い出にするには痛すぎました。
振り返って、穏やかな気持ちに包まれるには、きっとまだまだ時間がかかるのでしょう。
あの幸福そうな笑顔も、今は思い返せば胸が苦しくなりますが、それでもちょっとしたことからエレナを想うことは、やめられませんでした。
やめようとも思いませんでした。
となりの椅子に娘がいないことは、ひどく淋しいことですが、そのことに絶望することは、もうやめました。


「…シエラも一緒にどうだい?」
「は、はい!」


下がろうとしていた家政婦に声をかけると、彼女は飛び上がるように驚き、大慌てで自分のカップを持ってきました。
慌てすぎて、ドアに足をぶつけたり、転びかけたり、そそっかしいのは相変わらずです。


「ご依頼のお仕事は、昨日終わったんですよね?」


ミルクをこぼしてしまわないよう、注意深く椅子に腰掛けながら、シエラはオリバーに問いかけます。
大真面目にカップを扱う仕種は、まるで幼い子どものようでした。
そんなシエラに幼い頃のエレナを重ねて、オリバーは目を細めます。


「そうだよ。これは、仕事ではないんだ」
「そう…ですか……」


もの問いたそうな瞳を向けながらも、シエラはそれ以上は訊ねません。
小さな子ども用のその上着を見て、幼いまま逝ってしまったエレナを想ったのかもしれません。
これは、エレナのために作られた衣装なのだと。

それは、正しくはありませんでした。

ミルクをひとくち、ふたくち、口に運び、しばらく考えた後、オリバーは決心したようにシエラに向き直りました。


「……そうだな、君にも、話しておくべきだと思う」


自分が、何をしようとしているのかを。









     *****     *****     *****     *****     *****     *****     *****








春が近づいてきたとはいっても、まだまだ冷え込みの厳しい朝晩には、薪が不可欠でした。

夜も遅くなってから、ハックは居間の暖炉に薪を運びます。
このところ、ハックが家のために働くのは、専らエレナの墓所から戻った後、深夜になってからでした。
本来ブラウニーが働くのは家人が寝静まったあとであり、今まで明るいうちから家人とともに過ごしていたハックの方が、少し変わっていたのかもしれません。

本来の妖精の性に従い、ブラウニーはちゃくちゃくと仕事をこなします。
相変わらず、目端の利かない家政婦の仕事には粗が見つかりましたが、あまり気になりませんでした。
ただ黙々と、掃除の行き届かなかった部屋の隅のごみを拾い、テーブルにこびりついたままの汚れを拭き取ります。
以前なら猛然と腹を立て、翌朝には家政婦に仕返しの意地悪をしていたところですが、そんな気持ちにさえなれないのでした。
すべてのことは、妖精の心を動かさず、ただただ心の上を滑っていきました。

掃除の仕上げをして、家具を調え、やり残しはないだろうかと部屋のぐるりを見渡します。

そろそろ薪が足りなくなるかもしれません。
薪割りをするのは明日でも大丈夫だろうか。そんなことを考えているハックの耳に、ギイイ、と小さな音が聴こえました。


「……オリバー?」


小さな灯りを手に、オリバーが居間に入ってくるところでした。

このところ、ハックは家人が起き出す早朝には仕事を済ませ、森の中で過ごしていましたので、家人と顔を合わせるのは久しぶりでした。


「やあ、ご苦労様。久しぶりだね、ハック」


振り返ったまま、驚いて固まっている妖精に、オリバーは穏やかに微笑みかけました。
手元の灯りが、ジジ、と小さな音を立てます。
火の気のない居間は冷え込んでおり、思わずオリバーはガウンの襟をかき合わせました。
妖精は、いつもと変わらぬ薄汚れた茶色いボロボロの服を纏い、鼻の頭も膝も赤く染まっていましたが、特に気にした風もなくオリバーを見つめています。

オリバーが暖炉に近づき、火を入れようとすると、怪訝そうに妖精は眉をひそめました。
外はまだ月が支配する世界で、朝がくるのは当分先のことです。


「……もう起きるのか?」
「まさか。ただ、君と少し話がしたくてね」


ボッ、と小さな音を立てて火がつくと、オリバーはそれをためらいなく暖炉の中に放ります。
ハックが暖炉に入れた、真新しい薪に少しずつ炎が移り始めると、わずかに部屋の中が暖かくなりました。


「あんまり夜更かししてると、仕事に差し支えるぞ」


炎に照らされたオリバーの横顔にぶっきらぼうに告げると、横顔が振り向き、そうだね、と穏やかに笑います。
そのくせ妖精の忠告を聞くでもなく、灯りをテーブルに置くと椅子に腰掛け、となりの椅子を引いてハックを誘いました。
渋々ハックが椅子に座ると、一家の主は満足そうに笑いました。

そういえば、昔はこんな風にオリバーと向き合って話をすることがたまにありました。
エレナがまだほんの赤ん坊だった頃には、今と同じようにハックは深夜に静かに仕事をしており、たまに起きてきた仕立屋と話をするのを、密かな楽しみにしていたのでした。

エレナがハックに懐くようになり、仕事を昼間にするようになってからは、オリバーとゆっくり向き合うこともあまりなかったので、すっかり忘れていたのですが。
オリバーがとても腕の良い職人であったため、ハックはこの家の家付き妖精となったのですが、それ以上に、この穏やかなオリバーという仕立屋の気性が気に入っていたのです。


「君は、僕たちのために、本当によく働いてくれているね」
「……なんだよ、突然。それがおれの役割だろ」
「そうだね。でも、僕たちは、本当に君に感謝しているんだよ」


突然切り出したオリバーに、ハックは少々面食らいます。
眉をひそめるハックをよそに、オリバーは話を続けました。

初めてハックに出会ったときのこと。
最初の家政婦さんを、ハックが追い出してしまったこと。
発作を起こしたエレナを、ハックが励ましてくれたこと。

語り続けるオリバーの真意がつかめず、ハックが戸惑っている間に、オリバーはいったん席を外して、仕事部屋から何かを持ってきました。
そうして、小ぶりのクッションほどの大きさの袋に入ったそれを、ハックにそっと差し出します。


「……?」
「あけてみてごらん」


いつもと同じ、エレナがいた頃と同じ、穏やかな空気を纏っていながら、今日のオリバーはどこかいつもと違っていました。
疑問に思ってオリバーを見つめても、仕立屋はただ穏やかに笑って促すだけです。
仕方なく、ハックは袋の口を閉じた紐をほどきましたが、中味を認めると、突然その動きを凍りつかせました。



――深い緑の色をした、暖かな上着。



それは丁度、ハックが着るのに良い大きさでした。
妖精が認めた職人の作品だけあり、縫い目はしっかりと頼りがいがあり、端々まで気づかいの行き届いた、実に着心地の良さそうな上着でした。

どくん、と心臓が打ちます。

エレナがいなくなってしまってから、全ての出来事は妖精の心の表面をただ滑って行きました。
しかし今、初めて、また妖精の心が動きました。


「……オリバー……。これ……」


かすれた声を、それでも必死に絞り出す妖精に、オリバーは少しだけ淋しそうに、けれど温かに微笑みます。


「君は本当によく働いてくれたよ。充分役割を果たしてくれたと、僕は思う」


その上着を穴が開くほどに見つめながら、それでもハックはまだ手を出せないでいるようでした。
オリバーの言葉も聴こえているのか、ただ大きく呼吸を繰り返します。

そんな妖精を、仕立屋はじっと見つめていました。

ハックがその役割を果たしてくれた、と、そう考えたのは本当でした。
ブラウニーは、オリバーたちがこの森に移り住んでからの十数年、ずっとよく働き、尽くしてくれていました。
彼には、もういつだって楽園に行ける権利があるはずだと。

けれど、それ以上にオリバーの心を動かしたのは、エレナがいなくなってしまってからの妖精の変化でした。

エレナの不在は、自分にも大きな打撃で、打ちひしがれていた間には、妖精の様子に気づく余裕もありませんでしたが、ふと気づいてみると、ハックは全く変わってしまっていたのです。
ぶっきらぼうで少々乱暴だけれど、本当は心優しい、ハックという妖精の個性が、ほとんど失われてしまっていたのです。

自分たちとは違う世界を生きる妖精には、人間のように涙を流し、心を癒す術がないのでしょう。

うつろに仕事をこなすハックの姿は、オリバーにはとても痛々しく映りました。

もとよりハックはエレナのために尽くしてくれていたような妖精、それなら、エレナの行ってしまった『楽園』へこの妖精の解放してあげようと、そう思ったのです。


「…気に入らないかな」


凍り付いたままのハックにそっと問いかけると、妖精は大きく首を横に振ります。
腕の良い職人による、心の込められた洋服。妖精への贈り物として、これ以上のものはないほどの一枚でした。
それでもハックは上着を手にすることはなく、心乱れた様子でオリバーを見つめました。


「でも、おれは、これを受け取れない」
「……何故?」


びっくりしてオリバーは問いかけます。
ブラウニーにとって、『楽園』に行くことは、悲願とも言えることでした。
それだけに、ブラウニーに衣服を渡すことは、絶対のタブーとされていたのです。
それを受け取れば、妖精は必ずいなくなってしまうから。
それを受け取り、『楽園』に召されることこそが、ブラウニーの生きる目的なのだから。

それなのに、ひどく苦しそうにハックは首を振ります。


「おれ……おれ、約束したんだ…エレナと…」
「エレナと?」
「いつか…いつか…、大きくなったら、エレナがおれに服を作ってくれるって…。だから、それまではそばにいる……って…」


つっかえつっかえに言うと、それ以上その服を見ていられない、というように、ガタンと音を立ててハックは立ち上がりました。
つられたようにオリバーも立ち上がります。


「でも、それじゃあ君は……!」


さすがにその先は、口には出せませんでした。
オリバー自身にとっても、それはまだ生々しい痛みをともなう事実なのですから。

……エレナは、もういないのです。
この世の中の、どこを探してもいないのです。

人間ならば、いつかは命を終えて、先に愛しい人の行った『楽園』に行くことができます。
けれど、契約の成就がなければ、妖精は永遠の時を生きるのです。

もういない娘に、服を作ってもらうことは出来ません。
ハックはもう、永遠に『楽園』に行くことも、娘に会うことも出来ないのだと……。


絶句して立ち尽くすオリバーに、背を向けながら、淋しそうに妖精がぽつりと呟きました。





「……いいんだ…。おれの罪は、許されなかったっていうことだから……」









小屋から出て行く妖精を、引き止める言葉を、オリバーは持ちませんでした。















朝はまだ遠い、しんと冷えた夜の世界で、暖炉の炎だけが皓々と燃え続けていました。


















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2006.11.5